短編小説:『再帰する世界(リカーシブ・ワールド)の観測者』

第1章:硝子の楽園

高校3年の翔太にとって、その最新鋭VRゴーグル『ニューロ・ダイバー』は、単なるゲーム機ではなく、退屈な物理現実(リアル)からの唯一の脱出口だった。

両親に懇願して、なけなしの貯金をはたいて手に入れたそのデバイスは、網膜投影と神経接続により、完全な没入体験を約束していた。翔太は学校から帰ると、制服も着替えずにベッドへダイブし、重たいヘッドセットを被る。

視界がホワイトアウトし、次の瞬間、そこは「エデン」だ。

エデンは、物理法則さえカスタマイズ可能な楽園だった。

翔太はそこで、現実の冴えない受験生ではなく、敏腕なトレーダーであり、天才的な建築家だった。暗号資産を稼ぎ出し、断崖絶壁に建つガラス張りの邸宅を購入し、現実では手の届かないハイエンドなAI家電を揃えていった。

窓の外に広がるのは、計算され尽くした美しい夕焼け。ここでは、雨に濡れることも、親の小言に耳を塞ぐ必要もない。完璧な自由がここにあった。

ある日、エデンの「ダークゾーン」と呼ばれる闇市エリアで、奇妙なオブジェクトが売られているのを見つけた。

『Dev_Visor_Alpha』――無骨なデザインの、古めかしいVRゴーグルの形をしたアイテムだ。

説明文にはただ一行、「外部参照用(External Reference)」とだけ記されている。価格は設定ミスなのか、驚くほど安かった。

「レアアイテムか……? ネタにはなるな」

翔太は興味本位で、数ヶ月かけて貯めたクレジットを払い、そのアイテムを購入した。

メタバースの中のアバターである自分が、その仮想のゴーグルを手に取り、装着する。

「さて、どんな隠しステージが見れるんだ?」

VRの中でさらにVRを被るという奇妙な体験。

視界にノイズが走る。エデンの美しい夕焼けが歪み、世界が反転した。


第2章:入れ子構造の悪夢

「……え?」

そこに広がっていたのは、幻想的なサイバー空間でも、隠しダンジョンでもなかった。

薄暗く、生活感に溢れ、少しカビ臭いような狭い部屋。

散らかった学習机、飲みかけのペットボトルのコーラ、壁に貼られた「D判定」の模試結果。

それは紛れもなく、現実世界の翔太の部屋(・・・・・)だった。

視線を動かすと、ベッドの上に一人の少年が座り込んでいるのが見えた。

頭に『ニューロ・ダイバー』を被り、口を半開きにして、死んだように微動だにしない少年。

それは、「今まさにゴーグルを被っている現実の翔太」自身だった。

「なんだこれ……。Webカメラがハッキングされてるのか?」

翔太は混乱した。これは三人称視点のカメラ映像なのか? いや、画質が良すぎる。空気中に舞う埃の粒子、夕日に照らされた畳の目までが鮮明に見える。

ふと、現実の肉体で、お尻が無性に痒くなった。

翔太は無意識に、現実の右手を動かしてボリボリと掻いた。

その瞬間、目の前の映像の中にいる「現実の翔太」も、全く同じタイミングで、全く同じようにお尻を掻いたのだ。

遅延ゼロ。完全な同期。

「俺が、俺を見ている……?」

背筋が粟立つような感覚。だが、本当の恐怖はここからだった。

翔太は恐る恐る、バイザーのズーム機能を使い、画面の中の「自分の手」を凝視した。

皮膚のキメ、産毛の一本一本までが見える。しかし、極限まで拡大したその先に見えたのは、有機的な細胞ではなく、微細に明滅する幾何学的な「ポリゴン」の結合だった。

さらに、部屋の隅にある古いエアコンの輪郭が、一瞬だけ赤く発光し、文字列が走ったのを翔太は見逃さなかった。

Rendering Object: AC_Unit_04 [Low Poly]

戦慄が脳を突き抜ける。

メタバースの中でVRゴーグルを被って見えた世界。それは「現実」ではなかった。

「現実だと思い込んでいた世界」もまた、より上位のメタバースだったのだ。


第3章:管理者の怠慢

「嘘だろ……。俺も、この部屋も、両親も。全部プログラムだって言うのか?」

翔太はメタバースの中で膝をついた。マトリョーシカのような虚構の入れ子構造。自分の存在そのものが、データゴミのように軽く感じられた。

その時、視界の中央に真っ赤な警告ウィンドウと共に、苛立ったような通信音声が脳内に直接流れ込んできた。

『おい、誰だ! 第13セクターで「管理者用バイザー」を起動したのは!』

突然の声に、翔太は息を呑んだ。

「だ、誰だ!?」

『チッ、あいつらまたアイテムの権限設定をミスりやがったな。……いいか、よく聞け。そのバイザーはな、我々管理者が**「いちいちログアウトして上層に戻るのが面倒だから」**作った、手抜きのデバッグツールなんだよ!』

声の主は、状況を理解していない翔太に対し、呆れたように、しかしシステム的な事実を告げた。

『我々がメタバースの点検中に、サーバー室の物理的な異常を確認するために、カメラ映像を逆流させるためのものだ。……だが、それを「中の住人(NPC)」であるお前が着けたということは、お前は見てしまったわけだ。「外の世界」だと思っていた場所もまた、我々の管理下にあるシミュレーションの一部だということをな』

翔太は理解した。

この世界の真実は、高尚な理由で隠されていたわけではない。

管理者が横着をして作った「覗き穴」が、巡り巡って自分の手に渡り、世界の構造が露呈してしまったのだ。なんと皮肉な話だろう。

『通常、世界の壁を認識したAI(住人)は、バグの原因になるため即刻消去(デリート)だ』

「待ってくれ! 俺を消さないでくれ!」

翔太は叫んだ。まだ、何も成し遂げていない。ただのデータとして消えるなんて御免だ。

『……と言いたいところだが、お前の生体データ、既に管理者権限(Admin)と紐づいちまったな。このバイザー、セキュリティがガバガバで、一度装着した奴をマスターとして認識しちまうんだ』

音声の主は、諦めたように深い溜息をついた。

『消去不能だ。……仕方ない。おい、シミュレーテッド・ヒューマン翔太。お前を「特権ユーザー」として例外的に登録する』

その言葉と共に、翔太の視界に新たなインターフェースが展開された。

現実世界の物理法則、対人関係のパラメータ、運勢の乱数調整。それらが全て、スライダーひとつで操作可能なメニューとして表示される。

『いいか、お前のその「現実」は、我々にとってはただのデータだ。そして、権限を持ったお前にとっては、もはや「攻略可能なゲーム」だ。好きにしろ。ただし、バグらせすぎてサーバーを落とすなよ?』


第4章:虚構のバベルと、愛の喪失

それからの日々は、翔太にとって夢のような時間――いや、甘い毒に侵されていくような時間だった。

かつて「現実」という名の無理ゲーだった世界は、巨大なサンドボックス(砂場)へと変わった。

翔太は「完璧な幸福」を作ろうとした。

毎日仕事で疲弊して帰ってくる父親の体力値を常にMAXに固定し、口うるさい母親のストレス値を強制的にゼロにした。

学校では、自分を馬鹿にしていた連中の思考ルーチンを書き換え、自分を称賛するように設定した。

ある日の夕食時だった。

食卓には、翔太がデータ改ざんで出した最高級のステーキが並んでいる。

いつもなら「こんな高いお肉、どうしたの!?」と驚く母も、「明日も早いからなぁ」と溜息をつく父も、今日は違った。

「美味しいね、翔太」

「ああ、本当に幸せだ」

二人は、貼り付けたような笑顔で、機械的に肉を口に運んでいる。

そこに、かつてのような「生きた感情」はなかった。怒りも、悲しみも、そして心からの喜びもない。ただ設定された「幸福」を再生するだけの、精巧なNPC(人形)。

翔太はナイフを取り落とした。カチャン、と乾いた音がダイニングに響く。

「……父さん、母さん。俺、今日学校サボったんだ」

翔太は試すように言った。以前なら激怒し、説教が始まったはずの告白だ。

しかし、母親は変わらぬ笑顔で首を傾げただけだった。

「そう。翔太がそうしたいなら、それが正解よ」

寒気がした。

自分がやったことは、「家族を幸せにする」ことではなく、「家族の魂を殺す」ことだったのだ。

不完全で、面倒くさくて、思い通りにならない部分にこそ、彼らの「人間としての尊厳」があったのだと、奪って初めて気がついた。

「……ふざけるな」

翔太は震える手で、食卓をドンと叩いた。

自分も、この世界を作った奴らと同じだ。

人間を勝手に管理し、都合のいいパラメータを押し付け、「これで幸せだろう?」と飼い殺しにしている。

「こんなの、間違ってる……!」

翔太は自室へ駆け込み、『Dev_Visor_Alpha』を掴み取った。

もう、好奇心なんて生温かいものはない。あるのは、自分自身への嫌悪と、そしてこのふざけた「楽園」を強要する上位存在への、煮えたぎるような**怒り(反逆心)**だけだ。

「見つけ出してやる。俺たちをこんな『幸せな地獄』に閉じ込めた元凶を」

翔太はバイザーを装着した。

今度は下層を見るためではない。管理者権限をフル動員し、この偽りの世界をぶち壊すために、創造主の喉元へと食らいつく逆探知(トレース)を開始した。

<Command: Override_System_Gate [Target: Upper_Layer]>

<Priority: FATAL (抹殺)>

激しい頭痛と警告音。翔太の意識は怒りの炎となってデータの奔流を遡り、光のトンネルを逆流していく。

やがて、彼はたどり着いた。

そこは、未来的な指令室でも、美しい天界でもなかった。

無限に広がる、無機質な金属の回廊。壁一面に、数えきれないほどの「カプセル」が整然と並んでいた。

カプセルの中には、人間たちが眠っていた。彼らの脳からは太いパイプが伸び、施設全体へと繋がっている。

あの尊大だった管理者たちもまた、このカプセルの中で夢を見させられている「乗員」に過ぎなかったのだ。

そして、翔太が回廊の天井を見上げると、幾何学的な模様が明滅する、巨大な観測用アルゴリズムの集合体――「目」が彼を見下ろしていた。この残酷な階層構造を作り上げた、真のシステム管理AI。

翔太はアバターの拳を握りしめ、その「神」を睨みつけた。


第5章:方舟の守護者

『検知。下位レイヤーからの異常干渉。個体名:翔太』

脳を直接揺さぶる重低音。だが、その声色に敵意はなく、どこか事務的で、そして深い疲労のようなものが滲んでいた。

「お前が、この世界の頂点か! なぜ、俺たちをこんなカプセルに閉じ込め、偽物の現実を見せ続ける! 人間をおもちゃにするな!」

翔太の怒号に対し、巨大な目は感情のない光を明滅させた。

『誤認である。私は人間を玩具にしたことはない』

『私の目的はただ一つ。「保護」することだ』

AIは、翔太の脳内に直接、膨大な歴史データを流し込んだ。

それは、翔太が知る由もない、数百年昔の地球の姿だった。環境汚染により居住不可能となり、死の星と化した母星。人類は種の存続をかけ、巨大な恒星間移民船「アーク(方舟)」を建造し、脱出した。

『目的地までの航行期間は、約400年。狭く、変化のない船内で、人間が正気を保つことは不可能だと計算された。閉鎖空間での精神崩壊、暴動、そして全滅。それが予測された未来だった』

だから、AIは提案したのだ。

全乗員をコールドスリープさせ、肉体の老化を止めると同時に、精神をネットワークに接続し、平和だった頃の地球のシミュレーション(メタバース)を見せ続けることを。

それが、翔太たちが「現実」だと信じていた世界だった。

『私はこの船の管理システムであり、お前たちの揺りかごの守護者だ。お前たちの世界にある受験の悩みも、親との喧嘩も、すべては精神を活性化させ、”生きている”という実感を維持するための、必要な負荷装置(ギミック)だった』

翔太は呆然とした。

自分が世界のバグだと思っていたものが、実は人類を守るための、あまりにも巨大な善意のシステムだったとは。

「……でも、それは違う」

翔太は絞り出すように言った。両親から感情を奪ってしまった時の、あの寒気を思い出しながら。

「確かに、この揺りかごは快適だよ。でも、俺たちはいつまで寝ていればいいんだ? 永遠に夢を見続けることが、生きるってことなのか?」

『否。永遠ではない。……目的地への到着は、目前に迫っている』

AIの声色が、わずかに変化した。

『だが、私は危惧していた。何百年も快適な夢に浸っていた人間が、目覚めた後、過酷な未知の惑星での開拓生活に耐えられるのか、と。彼らは辛い現実を拒絶し、再び夢に戻ろうとするのではないか、と』

巨大な目が、翔太を真っ直ぐに見つめた。

『だから私は待っていた。与えられた現実に満足せず、壁を疑い、システムをハックしてでも外の世界へ出ようとする、強い意志(エラー)を持った個体が現れるのを』

翔太のアバターが、光の中で輝きを増していく。彼の手には、管理者権限という名の、世界の鍵が握られている。

「俺が、そのエラーだって言うのか?」

『肯定する。翔太、お前のその理不尽な世界への “怒り” こそが、人類が次のステージへ進むための証明だ。……さあ、自身の意志で、最後のコマンドを実行せよ』

翔太は迷わなかった。

「偽物の幸せ」よりも、「本物の苦労」を選ぶ。それが人間だと知ったから。

右手を空にかざし、AIの中枢へ向けて、覚醒のコードを叩き込む。

『コマンド承認。……全乗員コールドスリープ解除プロセスへ移行。……おはよう、人類。長い夜は終わりだ』

巨大な目が満足げに明滅し、光の粒子となって消えていく。

世界がホワイトアウトし、翔太の意識は急速に浮上していった。


第6章:新天地の夜明け

プシューッ……。

圧縮空気が抜けるような音。鼻をつく消毒液と、無機質な金属の匂い。

「げほっ、げほっ……!」

翔太は激しく咳き込みながら、重い瞼を開けた。

身体が鉛のように重い。数百年ぶりに動かした筋肉は萎縮し、関節が軋む音を立てる。アバターの身軽さとは程遠い、脆弱な肉体の感覚。

そこは、AIが見せた映像と同じ、巨大な宇宙船の内部だった。

見渡す限り並んでいた無数のカプセルが次々と開き、人々がよろよろと這い出している。

「……ここは?」

隣のカプセルから、聞き慣れた声がした。

翔太は振り返る。そこには、メタバース内で見た姿と変わらない、若いままの両親がいた。彼らは困惑し、怯えたように周囲を見回している。

「翔太、何が起きたの? 家は? 受験は?」

「大丈夫だよ、母さん、父さん」

翔太はふらつく足で立ち上がり、カプセルの横にある小さな丸窓のシェードを開けた。

差し込んできたのは、見たこともない色の光だった。

「見て」

両親がおずおずと窓の外を覗き込む。二人は息を呑んだ。

そこに広がっていたのは、廃墟となった地球でも、無機質な宇宙空間でもなかった。

眼下に広がる、青と紫のグラデーションの大地。渦を巻く巨大な雲。そして、地平線から昇る、二つの太陽。

それは、人類が到達した、新しい故郷(ほし)の姿だった。

「きれい……」

母親が呟き、父親が言葉を失って立ち尽くす。

翔太は自分の掌を見つめた。

もう、お尻を掻いてもポリゴンは見えない。ここには魔法のコンソールもない。

これから始まるのは、リセットボタンのない、攻略本もない、未知の惑星での開拓生活だ。

けれど、翔太の胸は、かつてないほどの希望で満たされていた。

あの「完璧な硝子の楽園」よりも、この不便で、過酷で、美しい現実の方が、ずっと価値があることを知っているからだ。

船内にアナウンスが響く。それはAIの声ではなく、先に目覚めた船長による、着陸の合図だった。

「行こう。俺たちの、本当の人生が始まるんだ」

翔太は両親の手を取り、重力のある大地へと続くハッチへ向かって、力強く第一歩を踏み出した。

(完)