その日、大会議室の空気は、張り詰めた弓弦(ゆづる)のようにピンと張り詰めていた。
年に一度の経営計画発表会。それは、企業の羅針盤がどちらを向いているのかを全社員に示す、神聖にして残酷な儀式である。壇上には、創業者一族の血を引く社長が、彫像のように冷徹な表情で鎮座し、その脇を歴戦の役員たちが固めている。彼らの眼光は、これから登壇する者を値踏みする品評会の審査員のそれであった。
沖田は、自身の心臓が肋骨の内側で早鐘を打つのを感じながら、演台へと進み出た。スポットライトの熱が、彼の額にじわりと脂汗を滲ませる。
「続きまして、来期の販売促進予算について、沖田よりご説明いたします」
司会の声が、静寂の湖面に石を投げ込むように響いた。
沖田は深く息を吸い込み、目の前に設置されたマイクを握った。金属の冷たさが、熱を帯びた掌に心地よい。彼は手元の資料に視線を落とした。そこには、彼が数週間かけて練り上げ、上司の決裁を仰いだ数字の精鋭たちが整然と並んでいるはずだった。
だが、次の瞬間、沖田の思考は凍結した。
A4用紙の右肩、日付の下あたりに、小さく、しかし決定的な一文が印字されていたのだ。
『単位:千円』
その五文字が、沖田の網膜を焼き尽くすほどの強烈な光を放った。
世界が歪んだ。
羅列された数字たちが、突如として意味を変貌させ、牙を剥いて沖田に襲いかかってきた。
例えば、一番上の行にある「販売促進費総額」。そこには「120,000」と記載されている。
もし、これが我々の生活空間で流通する「円」という単位であれば、話は単純だ。十二万円。それだけの話である。だが、ここは「千円」という、日常の感覚を麻痺させる魔境なのだ。
沖田の脳内で、緊急の演算処理が開始された。
「120,000」という数字の末尾に、不可視の「0」を三つ、精神の力で強制的に連結させねばならない。ゼロ、ゼロ、ゼロ。そうして初めて、この数字は真の姿を現す。「120,000,000」。
次に、この長大なアラビア数字の列を、日本語の位取り記数法という複雑怪奇な体系へと翻訳する作業が待っている。一、十、百、千、万……。下から四桁ごとに区切りを入れ、万、億、兆という単位の階段を駆け上がる。
一億、二千万、円。
この一連のプロセスを、沖田は瞬きするほどの時間で行わなければならない。しかも、これから読み上げる全ての数字に対して、だ。
(これは、何の訓練だ?)
沖田の脳裏に、苦渋に満ちた独白が浮かんだ。
(脳トレかよ。あるいは、我々の忠誠心と認知機能を同時に試す、高度な踏み絵か?)
彼は、この資料を作成した経理部の顔の見えない担当者を呪った。なぜ「百万円」単位にしなかったのか。いや、そもそもなぜ「円」単位で表記しないのか。彼らは、桁数の多さがもたらす視覚的な圧迫感を避けるという名目で、現場の人間に無用な認知的負荷を強いているのだ。これは数字によるハラスメントではないのか。
だが、時間は待ってくれない。
数百の視線が、沖田の唇の動きを注視している。彼らは、沖田が滑らかに、自信に満ちた声で未来の展望を語ることを期待している。
沖田は意を決して口を開いた。
「えー、来期の、販売促進費総額は……」
声が、微かに震えた。
彼の視線は、資料の「120,000」という数字に釘付けになっている。脳の処理速度が追いつかない。見えないゼロの亡霊たちが、彼の思考回路を埋め尽くし、言葉の生成を阻害する。
「い、いち……」
喉が渇き、舌が上顎に張り付くようだ。
マイクを握る右手が、小刻みに痙攣を始めた。その振動がマイクを通じて増幅され、「ゴソゴソ」という不快なノイズとなって会場に響き渡る。
社長の眉根が、ピクリと動いたのを沖田は見逃さなかった。
焦燥感が、胃の腑から熱い塊となってせり上がってくる。
(言え。早く言うんだ。一億二千万と)
脳からの指令とは裏腹に、彼の口から飛び出したのは、情けないほど上ずった、奇妙な高音だった。
「いちおくっ、にせんっ、まんえん、でございます」
会場の空気が、一瞬にして凍りついた。
それは、威厳ある予算発表の声ではなかった。まるで、初めてのお使いでレジに立った幼児が、緊張のあまり叫んでしまったかのような、不安定で頼りない音声だった。
沖田の顔面から火が出る。羞恥心が、彼の理性を焼き尽くそうとしていた。
だが、地獄はまだ入口に過ぎなかった。
次の行には「内訳:広告宣伝費 85,000」とある。
(八万五千……じゃない、ゼロを三つ足して……八千五百万……)
さらにその下には「販促キャンペーン費 35,000」。
(三万五千……いや、三千五百万……)
数字の羅列は、沖田にとって底なしの沼となった。一歩進むごとに、足を取られ、思考が沈殿していく。彼は必死にゼロの数を数え、位を変換し、それを音声として出力しようと試みた。
しかし、そのたびに彼の声帯は反乱を起こした。ある時は裏返り、ある時はどもり、ある時は不自然な間が空いた。
「広告、宣伝費は、はっせん……ごひゃく……いや、失礼しました、八千五百万円、となりまして……」
彼の額から滴り落ちた汗が、資料の「千円」という文字の上に落ち、インクを微かに滲ませた。その滲みは、沖田の嘲笑うかのように広がっていく。
会場の静寂は、もはや彼に対する無言の断罪となっていた。役員たちの冷ややかな視線が、沖田の未熟さを、準備不足を、そして数字に対する根本的なセンスの欠如を射抜いていた。
沖田は、自分が巨大な計算機の中のバグになったような気分だった。本来ならば滑らかに流れるはずのデータストリームを、彼一人が詰まらせ、システム全体を機能不全に陥れているのだ。
永遠にも思える数分間が過ぎ、ようやく最後の数字を読み終えた時、沖田の精神は摩耗しきっていた。
「い、以上でございます」
彼は逃げるように演台を降りた。足取りは覚束なく、膝が笑っていた。
自席に戻った沖田は、深い疲労感の中で、ぼんやりと天井を見上げた。
蛍光灯の白い光が、彼の虚ろな瞳を照らす。
彼の耳の奥では、まだあの忌まわしい数字たちが反響していた。「120,000千円」。その奇妙な文字列は、彼の脳裏にこびりつき、離れそうになかった。
隣の席の同僚が、心配そうに声をかけてきた。
「おい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
沖田は力なく首を横に振った。大丈夫なはずがない。彼は今、数字という名の悪魔と戦い、完膚なきまでに敗北したのだから。
彼は、これから先の会社人生で、「千円」という単位を見るたびに、この日の屈辱を、あのマイクの冷たさを、そして上ずった自分の情けない声を思い出すことになるだろう。
沖田は、そっと目を閉じた。瞼の裏に浮かんだのは、無数のゼロが渦を巻いて彼を嘲笑う、悪夢のような光景だった。
(終)