冬休みが明け、久しぶりの学校です。
放課後の理科室は少しひんやりとしていますが、夕日が差し込んで黄金色に輝いています。
クラマ先生は、実験机の上に何百個ものドミノを並べて、部屋いっぱいに巨大な迷路のようなコースを作っていました。
ケンタ:
「うわあ、すっげー! 先生、これ全部一人で並べたの?」
クラマ先生:
「ああ。冬休みの暇つぶしさ。……さあケンタ、最初のドミノは君が倒していいぞ。」
ケンタ:
「やった! じゃあいくよ……エイッ!」
ケンタが人差し指でチョンとつつくと、パタパタパタ……と軽快な音を立ててドミノが倒れ始めました。
美しい波のように連鎖し、分岐し、机の端まで到達すると、最後にポンッ!と小さな旗が飛び出す仕掛けが見事に成功しました。
ケンタ:
「おおーっ! 大成功!」
クラマ先生:
「見事な連鎖だったね。……ところでケンタ。今のドミノを見ていて、不思議に思わなかったかい?」
ケンタ:
「え? 何が?」
クラマ先生:
「一番最後の旗が飛び出したのは、誰のせいだい?」
ケンタ:
「それは、その手前のドミノがぶつかったからでしょ?」
クラマ先生:
「じゃあ、その手前のドミノが倒れたのは?」
ケンタ:
「もっと手前のドミノが押したから。」
クラマ先生:
「そうやって原因を遡(さかのぼ)っていくと、全ての原因は『君が指で突いたこと』に行き着くね。 つまり、ケンタが指を動かした瞬間、『最後に旗が出る』という未来は、もう確定していたことになる。」
ケンタ:
「うん。途中で止まらない限りはね。」
クラマ先生:
「では、ここからが本題だ。この世界にある全ての物質は、原子という小さな粒でできている。君の体も、脳みそも、この空気もね。そして原子は、物理の法則に従って、ドミノのようにぶつかり合って動いている。」
ケンタ:
「……うん。前にも聞いた気がする。」
クラマ先生:
「もしだ。ケンタの脳みその中で、神経細胞という『ドミノ』がパタパタ倒れたから、君は『指で突こう』と思ったわけだ。じゃあ、その脳のドミノを倒した原因は?」
ケンタ:
「えっ……。先生が『倒していいよ』って言った音が耳に入ったから?」
クラマ先生:
「じゃあ、私がそう言った原因は? 私がドミノを並べ終えたから。私が並べた原因は? 暇だったから。……こうやって原因をどんどん過去へ遡っていくと、どうなると思う?」
ケンタは少し考えて、ハッとしました。
ケンタ:
「……ずっと昔まで繋がっちゃう。」
クラマ先生:
「その通り。君が『倒そう』と決意したことも、今日のテストの点数も、今日の晩ごはんも。実は君が自分で決めたんじゃなくて、『宇宙が誕生した瞬間(ビッグバン)』に弾かれたドミノの連鎖が、今ようやく君に届いただけだとしたら?」
ケンタ:
「ええっ!?じゃあ、僕には『自由意志』なんてないの?僕が今『話をしよう』と思ってるのも、全部台本通りの自動運転ってこと?」
クラマ先生:
「昔の天才学者はそう考えた。『もし、世界中の全ての原子の動きを計算できる悪魔がいれば、その悪魔には未来がすべて見えているはずだ』とね。これを『ラプラスの悪魔』と呼ぶ。」
ケンタ:
「そんなの嫌だ!だって、それなら僕が勉強頑張ってもサボっても、結果は最初から決まってるってことでしょ?努力する意味ないじゃん!」
ケンタはムッとして、並んでいるドミノの残骸を指で弾き飛ばしました。
ガラガラと音を立ててドミノが散らばります。
クラマ先生:
「おや、八つ当たりかい?」
ケンタ:
「違うよ! 今、僕が暴れたのは『運命』を変えるためだよ!予測できないことをしてやったんだ!」
クラマ先生:
「ふふふ。残念ながら、君がそうやって怒ってドミノを弾き飛ばすことも、ラプラスの悪魔にはお見通しかもしれないよ?『ケンタは話を聞いて怒り、ドミノを飛ばすだろう』ってね。」
ケンタ:
「うわあああん! 先生のいじわる!僕はずっと運命の操り人形なの!?」
ケンタが頭を抱え込んだその時、クラマ先生は優しくコーヒーカップを置きました。
クラマ先生:
「……でもね、ケンタ。最近の科学では、『ラプラスの悪魔は存在できない』ということが分かってきたんだ。」
ケンタ:
「えっ? どういうこと?」
クラマ先生:
「ミクロの世界では、原子の動きは『確率』でしか決まらない。つまり、ドミノが右に倒れるか左に倒れるか、神様にもサイコロを振ってみるまで分からない『完全なランダム』があるんだよ。」
ケンタ:
「ランダム……。」
クラマ先生:
「それにね。仮に未来が決まっていたとしても、私たちにはその『台本』を読むことは絶対にできない。」
ケンタ:
「読めないの?」
クラマ先生:
「そう。未来が誰にも分からないなら、それは『決まっていない』のと同じことだ。君が今、右に行くか左に行くか。その結末を知っている者が誰もいないなら、君が選んだその道こそが、宇宙にとっての『決定事項』になる。」
ケンタ:
「……僕が選んだことが、決定事項になる。」
クラマ先生:
「そう。『未来が決まっているか』なんて悩む必要はない。『君がどうしたいか』という意志だけが、次のドミノを倒す唯一の力なんだから。」
ケンタは自分の人差し指を見つめました。
そこには、世界を変える小さな力が宿っているように見えます。
ケンタ:
「……そっか。原因がどうあれ、僕が『やりたい』って思って押せば、ドミノは倒れるもんね。」
クラマ先生:
「その通り。さて、理屈は分かったところで、ケンタ君にお願いがある。」
ケンタ:
「なに?」
クラマ先生:
「さっき君が『運命を変える』と言って弾き飛ばして散らかしたドミノ……。片付けるのは、君の『自由意志』で手伝ってくれると嬉しいな。」
散らばった数百個のドミノを見て、ケンタは顔を引きつらせました。
ケンタ:
「……うう。それって、僕が断ったらどうなるの?」
クラマ先生:
「その時は、先生の『雷が落ちる』という未来が確定しているね。」
ケンタ:
「えーっ! 理不尽だなぁ……。あ、でも待ってよ先生。」
クラマ先生:
「ん?」
ケンタ:
「さっき先生言ったよね。『未来が誰にも分からないなら、僕が選んだ道が決定事項になる』って。」
クラマ先生:
「ああ、言ったとも。」
ケンタ:
「だったらさ!僕が今ここで『片付けないで帰る』って選んだら、それも宇宙が始まった時から決まっていた『神聖な運命』ってことになるよね?先生は、宇宙の運命に逆らってまで雷を落とすの?」
クラマ先生:
「……。」
クラマ先生はコーヒーカップを持ったまま、目を丸くして固まりました。
そして数秒後、プッと吹き出しました。
クラマ先生:
「……くくっ、ははは!いや参った。一本取られたな。『ラプラスの悪魔』より手強い相手が、まさか目の前にいるとは。」
ケンタ:
「えへへ、どう? 論理的でしょ?」
クラマ先生:
「ああ、完敗だ。……じゃあ、その『偉大な自由意志』を持つケンタ君に、私からのお願いとして頼もうかな。腰が痛い可哀想な先生を、手伝ってはくれないかい?」
ケンタ:
「もー、しょうがないなぁ!『お願い』なら聞いてあげるよ。僕の自由意志でね!」
夕焼けの理科室に、二人がドミノを拾い集める乾いた音が響きます。
それが最初から決まっていたことなのか、二人が選んだ時間なのか。
それは誰にも分かりませんが、楽しそうな笑い声だけは確かにそこにありました。
(つづく)
