短編小説『景色を見ないベンチ』

市の中心部にあるその公園は、広大な敷地と季節の花々で知られ、週末ともなれば多くの家族連れやカップルで賑わっていた。

だが、公園の北側の外れ、メインの遊歩道から少し外れた小道の突き当たりに、奇妙なベンチが一つだけ置かれている。

そのベンチは、美しい池でもなく、色鮮やかな花壇でもなく、ただの古いレンガの壁に向かってポツンと設置されていた。座っても、視界に入るのはツタが這う無機質な壁面だけ。背後には遊歩道があるため、道行く人に対して完全に背中を向ける形になる。

誰がどう見ても、設計ミスか、置き場所を間違えたとしか思えない「無意味なベンチ」だった。

ある日曜日の午後。

私は、そのベンチに深く腰を下ろしていた。

仕事で大きなトラブルの処理がようやく一段落し、本来なら羽を伸ばすべき休日だった。しかし、蓄積された疲労は限界を超え、心はすっかりすり減っていた。

気分転換にと公園に来てみたものの、楽しそうにはしゃぐ子供たちの声も、眩しい太陽の光も、今の私にはノイズでしかなかった。美しく整えられた風景は「お前も明るく前向きに生きろ」と強要してくるようで、息が詰まった。

逃げるように歩き回り、偶然見つけたのが、この行き止まりのベンチだった。

座って壁を見つめる。

何も見えない。何も起きない。

ただ、レンガのざらついた表面と、風に揺れる一枚のツタの葉があるだけだ。

「……設計した人は、ここで何をさせようとしたんだろうな」

私が自嘲気味に呟くと、背後からカサカサと落ち葉を掃く音が近づいてきた。振り返ると、公園の清掃員らしき年配の男性が竹箒を手に立っていた。

「ああ、そのベンチに座る方は、大抵そうおっしゃいますね」

清掃員は手を止め、人の良さそうな笑みを浮かべた。

「やっぱり、設計ミスなんですか? せめて池の方を向いていれば、いい景色なのに」

私が尋ねると、清掃員は首を横に振った。

「いえ、ここは最初からその向きで設置されたんです。いわば『景色を見ないためのベンチ』ですよ」

「景色を見ないため?」

「ええ。世の中には、綺麗な景色を見るのさえ疲れてしまう時がありますからね。広すぎる空や、他人の幸せそうな姿が、かえって重荷になることもあるでしょう?」

清掃員は、レンガの壁を見上げた。

「ここは、世界に背を向けるための特等席なんです。この壁は、あなたに何も求めてきません。『頑張れ』とも『前を向け』とも言わない。ただ、そこにあるだけです。疲れた時は、何もない壁を見るのが一番目に優しいんですよ」

清掃員の言葉に、私はハッとした。

確かにそうだ。この壁は、私に何のプレッシャーも与えてこない。情報の洪水から完全に遮断された、ただの「余白」だった。

「案外、ここは人気なんですよ。あなたのように、一人で静かに壁を見つめて、また帰っていく方がよくいらっしゃいます」

清掃員は軽く会釈をすると、再び落ち葉を集めながら去っていった。

私はもう一度、正面の壁に向き直った。

不思議なものだ。さっきまで無意味なコンクリートの塊にしか見えなかった壁が、今は、外の世界の喧騒から私を守ってくれる頑丈な盾のように思えた。

大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。

胸の奥につっかえていた重たい空気が、少しだけ溶けていくのが分かった。

もうしばらく、この何もない景色を堪能しよう。

再び立ち上がり、あの眩しい遊歩道へと歩き出すための力が、自然と湧いてくるまで。

(了)