短編小説『縁側のタイムトラベラー』

大学の夏休み。久しぶりに帰省した私は、祖父母の家の縁側でスイカの種を飛ばしながら、奇妙な光景を眺めていた。

「おじいちゃん、それ、もう集荷来ないってば」

私が呆れて声をかける視線の先で、祖父が庭の隅にある古い赤いポストに、茶封筒を投函していた。ポストは錆びつき、投函口はガムテープで塞がれているはずなのに、祖父は器用に隙間からぐいっと押し込んでいる。

「ん? ああ、いいんだよ。これはここに入れる決まりだからな」

祖父はそう言って、またのんびりと縁側に戻ってきた。この謎の儀式は、私が帰省してから毎日続いている。

「ばあさん、茶が入ったぞ」

祖父が声をかけると、隣でウトウトと船を漕いでいた祖母が目を覚ました。

「あら、ありがとう。……あなたは、どちら様でしたっけ?」

祖母はここ数年、物忘れが進んでいる。私のことも「親切な近所の娘さん」だと思っているフシがあるし、ひどい時は、隣に座っている祖父のことさえ忘れてしまう。

「俺だよ、お前の亭主の、健一だ」

祖父は怒るでも悲しむでもなく、いつものことだという風に湯呑みを渡した。

「あら、そうでしたか。いい男ねえ」

「ははは、そうだろう、そうだろう」

二人はのんびりと笑い合う。私はその様子を、少し複雑な気持ちで見ていた。おじいちゃんは辛くないのだろうか。毎日忘れられて、毎日自己紹介をするなんて。私なら三日で心が折れてしまいそうだ。

ある日の午後、祖父母が揃って買い物に出かけた隙に、私の好奇心は限界に達した。

あのポストだ。一体何を毎日入れているのか。ボケ防止の俳句でも投稿しているつもりなのだろうか。

私はサンダルを履いて庭に出て、錆びたポストの裏側に回った。取り出し口の鍵は壊れていて、簡単に開いた。

ギギギ、と嫌な音を立てて扉が開く。中には、茶封筒がぎっしりと詰まっていた。

「うわ、すごい量……」

一番上の一通を手に取る。宛名はなく、封もされていない。私は少し罪悪感を覚えながらも、中身を取り出した。便箋には、祖父の几帳面な文字が並んでいた。

『八月十五日。今日は晴れ。庭の朝顔が三つ咲いた。お前は朝食の目玉焼きを見て「太陽みたいね」と笑っていた。昼過ぎ、孫の遥(はるか)がスイカを食べ過ぎてお腹を壊した。お前は心配して、なぜか俺の腹をさすってくれたな。明日はもう少し涼しくなるといい』

それは、手紙というよりは、日記だった。

それも、祖母に関する些細なことばかりが綴られた、観察日記のようなものだ。

私は次の封筒を開けた。

『八月十四日。お前は昼間、俺のことを忘れて「お父さん」と呼んだ。俺が「健一だ」と言うと、少女のように顔を赤らめていた。可愛らしかったから、よしとする』

『八月十三日。今日は一日中、機嫌が良かったな。昔行った熱海の海の話をしたら、お前は「昨日のことのようね」と言った。俺もそう思う』

私はポストの前にしゃがみ込み、何通も、何通も読んだ。

そこには、忘却の海に沈んでいく祖母の日常を、一日たりとも取りこぼすまいとする、祖父の静かで執念深い記録があった。

祖母が忘れてしまっても、このポストの中には、二人が過ごした「今日」が確かに積み重なっているのだ。祖父は毎日、過去に変わっていく「今日」を、このタイムカプセルに保存していたのだ。

(おじいちゃん、すごいよ……)

不器用すぎる愛の形に、胸の奥がじんわりと熱くなる。湿っぽいのは苦手なのに、鼻の奥がツンとした。

封筒の山を元に戻そうとして、私はポストの底に、一通だけ色の違う、小さな白い封筒があるのに気づいた。

古びて黄ばんでいる。私はそれを慎重に取り出した。

震えるような、か細い文字で、一言だけ書かれていた。

『けんいちさんへ
わたしは いろいろ わすれてしまいますが
あなたが たいせつにしてくれていることは
こころが おぼえています
いつも ありがとう
あなたのつまより』

日付はない。いつ書かれたものなのか、祖父がこれに気づいているのかも分からない。

けれど、確かに届いていたのだ。祖父の毎日の一方通行な手紙は、どこかの時点で、ちゃんと祖母の心に届いていたのだ。

「……ただいま。遥、庭で何してるんだ?」

玄関の方から、祖父の声がした。私は慌てて手紙をポストに押し込み、涙を拭いて何食わぬ顔で立ち上がった。

「ん? ううん、ちょっとトンボを見てただけ」

縁側に戻ると、買ってきたばかりの夕飯の惣菜を広げながら、祖父が言った。

「そういえば遥、明日帰るんだったな」

「うん。大学始まるしね。また冬に来るよ」

「そうか。ばあさん、遥が明日帰るそうだ」

祖母はコロッケを箸でつつきながら、きょとんとした顔で私を見た。

「あら、どちら様でしたっけ?」

祖父がまたか、という顔で笑い、私もつられて笑った。さっきまでとは違う、穏やかな気持ちで。

「私だよ、おばあちゃん。孫の遥」

私は、祖父がいつもするように、ゆっくりと優しく名乗った。

祖母は「あらまあ」と目を細めて笑った。

「いい娘(むすめ)さんねえ」

西日が差し込む縁側で、三人の影が長く伸びる。

この穏やかな時間も、明日には祖母の記憶から消えてしまうだろう。

でも、それでいい。

この庭の片隅にある赤い箱が、今日の日の温かさを、ずっと覚えていてくれるはずだから。

(おわり)