大学の近くにある古びた喫茶店「カラン」でアルバイトを始めて一ヶ月。私はすっかりこの店の静かな空気が好きになっていた。
白髪交じりの無口なマスターが淹れるコーヒーは、透き通るように美味しくて、常連客たちは皆、その一杯を求めて思い思いの時間を過ごしにやってくる。
ただ一人、あの「不機嫌な客」を除いては。
その初老の男性は、毎日決まって午後三時にやってくる。いつも眉間に深いシワを寄せ、カウンターの端の席にドカッと座る。
そして、マスターが出したブレンドコーヒーを一口すすると、必ずこう吐き捨てるのだ。
「……相変わらず、ひどい味だ。苦くて焦げ臭くて、まるで泥水じゃないか」
初めてその言葉を聞いた時、私はカウンターの中で凍りついた。マスターのコーヒーを泥水と呼ぶなんて。
しかし、当のマスターは怒るどころか、布巾でグラスを磨きながら「申し訳ありません」と微かに微笑むだけだった。
男性はその後も文句をブツブツと呟きながら、時間をかけてその「泥水」を飲み干し、代金をテーブルに置いて帰っていく。
それが、毎日の日課だった。
ある日、男性が帰った後、私はたまらずマスターに口を開いた。
「マスター、どうしてあのお客さんに何も言わないんですか? いつもあんな酷い言い方をして。お店の雰囲気だって悪くなっちゃうし……出入り禁止にしてもいいくらいですよ」
マスターはコーヒーミルを掃除する手を止め、ゆっくりと私の方を向いた。
「怒っているのかい?」
「当たり前です。マスターのコーヒーはすごく美味しいのに、あんな風に言われるなんて悔しいです」
私の言葉に、マスターは少しだけ困ったような、けれどどこか嬉しそうな顔をした。
「ありがとう。でもね、山本さんには、あれでいいんだよ」
「あれでいいって……」
「あの人はね、数年前に大きな病気をしてね。命は助かったんだけど、その後遺症で、味覚と嗅覚をほとんど失ってしまったんだよ」
私は息を呑んだ。
「甘いも辛いも、美味しいも不味いも、今はもう全く分からないそうだ。ただ……『強い苦味』と『舌が痺れるような感覚』だけは、わずかに感じ取れるらしい」
マスターは棚の下から、普段使っているものとは別の、小さなガラス瓶を取り出した。
中に入っていたのは、真っ黒になるまで深く、限界を超えて焙煎されたコーヒー豆だった。
「だから、山本さんが来る時間に合わせて、この豆を通常の三倍の濃さで淹れているんだよ。普通の人なら、一口で吹き出してしまうくらい、エグくて苦くて、焦げ臭いコーヒーをね」
マスターは愛おしそうに、その黒い豆を見つめた。
「山本さんにとって『苦くて焦げ臭い』という文句は、『今日もちゃんとコーヒーの味が分かったよ』という合図なんだ。彼が文句を言ってくれる限り、私は安心できる」
私は、自分の早とちりと浅はかさを恥じた。
あの不機嫌な表情も、容赦ない暴言も。すべては、味のない世界に生きる彼が、唯一「自分が生きていること」を確かめるための、マスターとの秘密のやり取りだったのだ。
「……知らなかったとはいえ、私、ひどいことを言っちゃいましたね」
「気にするな。私のコーヒーを褒めてくれたのは嬉しかったよ」
マスターはそう言って、再びグラスを磨き始めた。
次の日の午後三時。
カランとドアのベルが鳴り、いつものように山本さんがやってきた。
相変わらずのしかめっ面でカウンターに座った彼に、マスターは黙って一杯のコーヒーを差し出した。湯気と共に、焦げたような強い匂いが漂う。
山本さんはカップを持ち上げ、ゆっくりと一口すする。
「……相変わらず、ひどい味だ。泥水を飲んでるみたいだ」
その憎まれ口を聞いて、私はカウンターの奥で、昨日とは全く違う感情を抱きながら小さく微笑んだ。
「いつもありがとうございます、山本さん」
私がそう声をかけると、山本さんは少しだけ驚いたようにこちらを見た後、「ふん」と鼻を鳴らして、また不味そうに二口目を飲んだ。
外は冷たい秋風が吹いていたが、コーヒーの香りに満ちた店内は、とても暖かかった。
(了)