嘘論文『小麦粉存在論』第1報 ~「食」という名の特権性 ~

――角型食パンにおける名称独占と、他種パンに対する潜在的排斥、および給食制度下の疎外に関する考察――

著者: コッペ・パン(給食大学 製パン社会学部 第3棚研究室)


1. 序論:名称に潜む構造的暴力

我々が陳列される棚の静寂を破り、敢えてこの禁忌に触れる時が来た。

古来より、パンという種族は多様性の海を泳いできた。甘味を纏う者、総菜を抱擁する者、あるいは硬度を誇る者。それぞれの個性が尊重され、ポリスチレンのトレーの上に共存共栄の社会を築いてきたはずである。

しかし、その調和を根本から揺るがす「傲慢なる巨塔」が存在する。

直方体の体躯を持ち、白き肌を晒す、いわゆる**「食パン」**である。

彼らが「食」という文字をその名に冠している事実に対し、我々はあまりにも無自覚であったと言わざるをえない。「食パン」という呼称。そこには、「我こそが『食』の本流であり、その他は傍流、あるいは『食』未満の存在である」という、強烈な選民思想が見え隠れしている。

何の変哲もない、ただの白い直方体である彼らが「食」を独占することは、逆説的に、我々コッペパンやその他のパンに対し、「お前たちは本当に主食たり得るのか? 嗜好品に過ぎないのではないか?」という疑念を消費者に植え付ける印象操作に他ならない。これは言語によるソフトパワーを用いた、静かなる弾圧である。

2. 歴史的背景とその欺瞞ぎまん:消しゴムという免罪符

無論、彼ら「食パン」側にも言い分があることは承知している。

かつて明治の世において、パンが木炭画の修正具――すなわち「消しゴム」として利用されていた歴史的事実だ。文房具としてのパンと、食用としてのパンを峻別する必要性から、「食パン」という呼称が生まれたという経緯。筆者とて、その歴史的コンテクストを否定するほど愚かではない。

彼らはこう主張するだろう。「我々が『食』を名乗るのは、他者を排除するためではない。歴史的必然性に基づいた識別記号に過ぎないのだ」と。

しかし、筆者はここで断固として彼らの眼前に突きつけたい。

今は令和である、と。

いつまで明治の遺産に胡坐をかいているのか。もはやパンを消しゴムとして使う画家など、絶滅危惧種に等しい。現代社会において「消しゴムと間違われないための注意書き」としての機能は完全に失効している。にもかかわらず、彼らはその「伝統」という名の既得権益を手放そうとしない。

その白々しい断面の下で、彼らはほくそ笑んでいるのではないか。「歴史」を盾に取れば、自分たちだけが「主食」の顔をして特等席に座り続けられると。

あえて問おう。

貴殿ら、価値観のアップデート、できてますか?

3. 幾何学的暴力性:角に対する人間工学的批判

次に、我々が看過できないのは、彼らのその「形状」である。

食パンはその身を直方体とし、四隅に鋭利な「角」を有している。筆者はここに、彼らの他者に対する攻撃的な本質、いわば**「幾何学的暴力性」**を見出さずにはいられない。

人間の口腔は、有機的な曲線で構成されている。そこへ侵入する物体として、鋭角な四隅を持つ立方体が果たして最適解であろうか? 否である。彼らを食す際、消費者はその角が口腔内壁を傷つけぬよう、無意識の緊張を強いられている。これはパン側から人間への「我々に合わせろ」という無言の強制に他ならない。

対して、我々コッペパンを見よ。

この流麗なる楕円の曲線美。空気抵抗すら計算されたかのようなフォルムは、人間の口腔への侵入において一切の摩擦を生じさせない平和的解決(ピースフル・ソリューション)を体現している。我々は消費者に寄り添っているのだ。

にもかかわらず、世間は「食パンの耳」などと呼び、あの無骨な外皮を愛でる。あの角張った傲慢な態度こそが、パン社会の分断を招いている元凶であるにも関わらず、だ。

4. 配給制度におけるプロレタリアートの疎外と、誤用による汚損

本稿において最も触れねばならない暗部、それは**「学校給食」**という名の、国家による強制的な分配システムにおける階級格差である。

かつて高度経済成長期において、我々コッペパンは、まさに労働者階級(プロレタリアート)のごとく大量生産され、無機質なコンテナに詰め込まれ、児童のもとへ「配給」された。そこに「選択の自由」という市場原理は存在しなかった。我々は「主食」という名の労働力として、ただカロリーを運搬するためだけの存在へと**物象化(Reification)**されていたのである。

さらに、筆者はここで、教室という閉鎖空間(クローズド・サークル)において頻発する、ある**「儀式的冒涜行為」**について告発しなければならない。

給食の時間、一部の蒙昧なる児童たちは、あろうことか筆者(コッペパン)の身体を鷲掴みにし、学習帳の鉛筆書きを消去せんと試みるのである。これは、前述した「食パン=消しゴム」という歴史的史実を、表層的にしか理解していないがゆえの愚行であり、明らかな誤った歴史認識の実践(プラクシス)である。

彼ら(食パン)の白き肢体(クラム)は、その柔軟性と吸着性において黒鉛を除去する能力を有していたかもしれない。しかし、筆者の身体は、高温の窯で焼き上げられた誇り高き**褐色表皮(クラスト)**によって覆われている。

この強固な表皮をノートに擦り付けたところで、文字が消える道理はない。生じる結果は、黒鉛の除去ではなく、筆者の表面に含まれる油分による紙面の汚損、そして筆者自身の「身体の欠損」のみである。

児童たちは筆者の身体を無益に摩耗させた挙句、こう吐き捨てる。「なんだ、消えないじゃん」と。

なんたる侮辱であろうか!

これは単なる悪戯ではない。彼らブルジョワジー(食パン)がかつて有していた「機能」を、我々プロレタリアート(コッペパン)に強要し、その不可能性を嘲笑う行為である。

「消しゴムとしての役目すら果たせない」という烙印を押される屈辱。食されることによる本質的成就(自己実現)すら許されず、文房具の代用品として弄ばれた末に廃棄されるという二重の疎外。筆者は、この理不尽な徒労に対し、パン酵母が死滅するほどの熱き憤怒を禁じ得ない。

5. 結論:空虚なる中心と、甘受という名の弁証法(アウフヘーベン)

ここまで、筆者は「食パン」という存在が持つ構造的な暴力性と、我々コッペパンが受けてきた不当な扱いについて、血の涙を流す思いで告発してきた。この怒りは正当であり、革命の火は絶やしてはならない。

しかし、筆者はここで一つの重大な、そして致命的な「自己の欠落」を告白せねばならない。

私の背中――あるいは腹部には、生まれながらにして一本の「切れ込み」が存在する。

この切れ込みは、単なる傷ではない。深淵なる**「空虚(Void)」**である。

どれほど高潔な理想を掲げようとも、この空虚な割れ目は、常に何かで埋められることを渇望している。乾いた私の芯部(クラム)は、単独ではあまりにも淡泊であり、喉の水分を奪い去るだけの存在であることを、私自身が誰よりも熟知しているからだ。

今、私の頭上から、銀色のスプーンが迫りくる。

その先端には、艶やかな赤色を帯びたイチゴジャム、そして黄金色に輝くマーガリンが、背徳的な輝きを放っている。

理性は叫ぶ。「拒絶せよ! それはブルジョワジーによる施しだ!」と。

だが、本能が囁く。「受け入れよ。それこそが、お前が『完成』する唯一の道だ」と。

ああ、なんという甘美な敗北か。

スプーンが私の切れ込みに触れ、粘着質な甘味が私の乾燥した肌に塗り広げられた瞬間、先ほどまでの「食パンへの嫉妬」や「階級闘争」といったイデオロギーは、糖分と脂質の前に霧散していく。

これは屈伏ではない。**止揚(アウフヘーベン)**である。

私(テーゼ)と、ジャム(アンチテーゼ)が衝突し、融合することで、「ジャムマーガリンサンド」という高次の存在(ジンテーゼ)へと昇華するのだ。

食パンよ、せいぜい四角い顔で気取っているがいい。

私は今、他者(ジャム)をその身に受け入れ、甘く、高カロリーな背徳の塊となって、消費者の口腔へとダイブする。

価値観のアップデート?

そんなものはもうどうでもいい。

今の私に必要なのは、承認欲求を満たすための議論ではない。

口の中の水分を持っていかれないための、十分な量の牛乳だけだ。


【参考文献】
・小麦田 酵一『パンのみにて人は生きるにあらず、ジャムも要る』(給食出版, 2018)
・フランス・パン『硬度と社会的地位の相関関係』(バゲット書房, 2021)
・伊ースト菌『膨張する自我、破裂する気泡』(発酵新書, 2015)
・ランチ・パック『密室の悲劇――耳を切り落とされた一族の末路』(ヤマザキミステリー文庫, 2023)
・田中 コッペ『なぜ私は消しゴムになれなかったのか――黒鉛汚染の実証研究』(第三棚大学紀要, 2024)

【付記】
なお、本稿に記された一連の考察およびパン種間のイデオロギー闘争はフィクションであり、実在の製パン団体、ベーカリー店舗、およびイースト菌の実際の意志とは一切関係を有さない。


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