短編小説:『善意の王と紙の城』

その国、ルメリ共和国の新中央銀行総裁、ヴァレンティンは、誰よりも優しく、そして誰よりも勤勉だった。

就任初日、彼は深夜まで執務室の窓から街を見下ろし、涙を流していた。

「見てくれ、ベルナール。あそこの路地で老婆が寒さに震えている。子供がパン屋のショーウィンドウを虚ろな目で見つめている。これが我が国の現実なのか?」

秘書官のベルナールは静かに頷いた。「はい、総裁。長引く不況で失業率が高まっており……」

ヴァレンティンは机を叩いた。怒りではなく、悲しみ故に。

「許せない。この国の銀行には金庫に大量の紙幣が眠っているのに、外では民が飢えているなんて。これは『分配』の機能不全だ。私が直さなければならない」

彼は経済学の学位を持っていなかったが、熱いハートを持っていた。

彼は本気で、自分の仕事は「国民を救うこと」だと信じていたのだ。

「総裁、紙幣の増刷はインフレを招きます。通貨の信用が……」

古参の官僚たちが止めに入ると、ヴァレンティンは充血した目で彼らを睨みつけた。

「信用? 君たちは『信用』という目に見えない幽霊のために、目の前の子供を餓死させるのか! 私はそんな冷血な数字遊びをするためにここに来たんじゃない!」

彼の純粋な正義感に、官僚たちは口をつぐんだ。

ヴァレンティンは寝る間も惜しんで働いた。輪転機を24時間フル稼働させるための決裁書類に、腱鞘炎になるほどサインをし続けた。

「もっと早く! もっと多くだ! まだ行き渡っていない家庭がある!」

市中に新札が溢れ出した。

最初、国民はヴァレンティンを「救世主」と崇めた。誰もが借金を返せ、欲しい物が買えたからだ。その歓声を聞いて、ヴァレンティンは安堵の息を漏らした。「ああ、やっと皆が笑ってくれた」と。

しかし、その「幸せ」は一瞬で腐り始めた。

物価が高騰し始めたのだ。パン1個が、昨日の給料全額分になった。

ヴァレンティンは激怒した。経済の仕組みに対してではない。「強欲な商人たち」に対してだ。

「なぜだ! 国民がやっと手にした金を、なぜ値上げで奪い取ろうとする! なんて卑しい連中だ!」

彼は本気でそう思い込み、対策を打った。

「物価が上がって苦しいなら、その分もっと配ればいい。国民が『もう十分だ』と言うまで、私は戦い続けるぞ」

彼はさらに刷った。桁が増え、電卓では計算できないほどの額面が入った紙幣が作られた。

市場はもはや機能せず、人々は紙幣を壁紙の代わりに使い始めた。

「どうしてだ……どうして上手くいかない……」

やつれた顔でヴァレンティンは悩んだ。彼は私腹を肥やすどころか、自分の私財まで投げ打っていた。こんなに国民を愛しているのに、なぜ国は地獄になっていくのか。

ある日、彼はテレビで「通貨の量と価値」に関する簡単な解説を見た。

彼の目から鱗が落ちた。そして、恐ろしい誤解をしたまま立ち上がった。

「そうか! 私としたことが! 紙幣が『多すぎる』ことが悪影響を及ぼしているのか。ならば、私が責任を持ってその『毒』を取り除かねばならない」

彼はすぐさま行動に移した。

中央広場に、回収した莫大な量の紙幣を積み上げた。それは彼の汗と涙の結晶だったが、国民のためにと、彼は自らの心を引き裂く思いで決断したのだ。

テレビ中継のカメラが回る中、ヴァレンティンは涙ながらに訴えた。

「愛する国民よ! この紙切れが諸君を苦しめているのなら、私がその痛みを引き受けよう! 本来なら価値あるこの財産を、国の未来のために私が犠牲にする!」

彼は「貴重な財産を燃やす」という崇高な儀式として、震える手で点火した。

火柱が上がった。

ヴァレンティンは、これで通貨の希少性が戻り、パンの値段が下がると信じて祈った。

しかし、その炎が焼き尽くしたのは、紙幣ではなく、この国に残っていた最後の「正気」だった。

国民は見たのだ。

中央銀行のトップが、自国通貨を「燃やすべきゴミ」として扱っている姿を。

それは「この国はもうおしまいだ」という、政府公認の合図だった。

その瞬間、通貨の価値は完全に消滅した。

誰もルメリ・ドルを受け取らなくなり、物流は停止。電気も止まり、暴動すら起きる気力もなく、国は静かに死んだ。

数週間後、廃墟となった総裁室。

国外逃亡の準備をする部下たちに取り残されたヴァレンティンは、煤けた壁に寄りかかり、動かなくなった輪転機を撫でていた。

「私はただ、みんなにお腹いっぱい食べてほしかっただけなんだ……。どこで計算を間違えたんだろう……」

彼の目には、未だに「悪意」はなかった。ただ、致命的なまでの「無知」があっただけだ。

やがて隣国の資本が入り込み、国は解体され、地図から消えた。

新しい支配者のもと、人々は新しい通貨でパンを買い、日常を取り戻した。

世界は今日も平和に回っている。

「善意」という名の劇薬で国を滅ぼした、優しき青年のことなど、歴史の教科書の脚注にも残さずに。

(終)