短編小説『翠玉(すいぎょく)の断罪』

四月の夕暮れは、腐った杏のような色をしていた。

放課後の自転車置き場には、錆びた鉄の匂いと、行き場のない青春の澱みが沈殿している。

高校一年生のサトシは、その気怠い重力の中を、水底を歩くような足取りで自身の愛車へと向かった。

彼の視界の先にあったのは、あるべきはずの黒い革製のサドルではなかった。

そこには、あまりにも場違いで、鮮烈な「緑」が鎮座していた。

ブロッコリーである。

サトシの銀色の自転車のシートポストに、その緑黄色野菜は深々と突き刺さっていた。

夕陽を浴びて、その蕾(つぼみ)の集合体は、あたかも太古の森を凝縮したかのような、圧倒的な生命の密度を誇示していた。

「……なんと」

サトシは呻いた。怒りではない。それは畏怖に近い感情だった。

誰かがサドルを盗み、その代償としてこの野菜を活けたのだ。一般的に見れば、それは悪質な悪戯であり、嘲笑の対象である。だが、サトシの網膜に映ったのは、剥き出しの金属に強引に接木された、痛々しいほどの植物の生命力だった。

彼は震える手でブロッコリーの茎を掴んだ。冷たく、硬く、そして微かに湿っていた。

引き抜くと、茎の断面からは青臭い匂いが立ち上り、鼻腔をくすぐる。それは、大地の匂いであり、生きようとする意志の匂いだった。

「見てみろよ、あいつ。本当に刺さってやんの」

背後で、下卑た笑い声が弾けた。

振り返ると、同級生の男たちが三人、腹を抱えて笑っている。その中心にいる男の手には、サトシのサドルがぶら下がっていた。彼らの眼には、サトシの困惑が極上の娯楽として映っているようだった。

サトシはゆっくりと彼らに歩み寄った。右手には、引き抜いたばかりのブロッコリーを、まるで聖火のように掲げている。

「おい、返してほしけりゃ土下座でもしてみろよ」

主犯格の男が言った。だが、サトシは止まらない。その瞳には、彼らが期待したような「所有物を奪われた者の憤り」は微塵も宿っていなかった。そこにあったのは、もっと根源的で、静謐な、絶対零度の殺意だった。

サトシは男の目前で立ち止まると、静かに言った。

「貴様は、このフラクタルを見ても何とも思わないのか」

「は?」

「この蕾の配列を。この茎の繊維を。土の中で養分を吸い上げ、太陽の光を浴びて、ようやくこの形を成した『時間』の結晶を、貴様はただの悪ふざけの道具(パーツ)へと貶めたのだ」

サトシの声は、夕闇の中で低く響いた。彼はブロッコリーを男の目の前に突きつけた。その緑色の森は、薄汚れた制服の男たちを断罪するように、無言の圧力を放っている。

「サドルなどどうでもいい。くれてやる」

サトシは一歩踏み出した。男が怯んで後退る。

「だが、許せないのはその精神の貧困さだ。貴様は、このブロッコリーが食卓に並び、誰かの血肉となるはずだった未来を奪った。ただ笑いを取るためだけに、この崇高な生命を、冷たい鉄パイプに突き刺し、空気に晒し、乾燥させた」

サトシの手が伸び、男の胸倉を掴んだ。その力は、自転車のペダルを踏み込む脚力のように強靭だった。男が悲鳴を上げる暇もなく、サトシは彼を金網へと押し付けた。

「謝れ」

サトシは言った。

「俺にではない。この、声なき緑の生命(いのち)に対してだ。ビタミンCとカロテンの塊に対して、その浅ましい魂の底から懺悔しろ」

男の顔から笑みが消え、恐怖が張り付く。目の前のこの男は、何かが狂っている。サドルを盗まれたことよりも、野菜の尊厳が傷つけられたことに本気で怒り狂っているのだ。その理解不能な価値観の深淵に触れ、男は戦慄した。

「ご、ごめんなさい……ブロッコリー、ごめんなさい」

男の震える声が、夕暮れの校庭に吸い込まれていく。

サトシはゆっくりと手を離した。ブロッコリーの蕾が、風に吹かれて微かに揺れた気がした。

サトシは奪い返したサドルを荷台に縛り付けると、ブロッコリーを大切に左手で抱え直し、片手運転でペダルを漕ぎ出した。

今日の夕食は、こいつを茹でて食べよう。マヨネーズなどはいらない。塩だけでいい。

その塩気と共に、彼らの愚かさと、この世界の不条理を噛み砕き、我が血肉へと変えるのだ。

西の空には、一番星が鋭く光り、サトシとブロッコリーの帰路を静かに見下ろしていた。

(終)