1.静寂は破られるためにある
日曜日の午前11時。
犬飼健太(いぬかい けんた)にとって、この時間は聖域だった。
窓の外は穏やかな晴天だが、厚手の遮光カーテンが陽光を拒絶し、部屋を深海の底のような安らかな薄暗さに沈めている。
国家基幹AI『MOMO』の保守管理という、国の神経系を守る激務から解放され、唯一、アラームをかけずに眠れる至福の刻。彼は二度寝の海をたゆたいながら、夢と現(うつつ)の境界線を彷徨っていた。
ピンポーン。
無慈悲な電子音が、静寂を引き裂いた。
(……宅急便か? 時間指定はしていないはずだが)
健太は重い瞼をこすりながら、のろのろと起き上がった。寝癖のついた髪をかきむしり、よろめく足取りでインターホンへと向かう。モニターを確認もしないまま、解錠ボタンを押した。
それが、今日最初の、そして最大のエラーだった。
「おっはよー! 健太くん! 生きてるー!?」
「……邪魔するぞ」
ドアを開けた瞬間、パステルイエローのワンピースを着た雉岡玲奈(きじおか れいな)と、タンクトップ姿で巨大なクーラーボックスを抱えた猿渡剛(さわたり つよし)が、雪崩のように押し寄せてきた。
廊下の静けさは、一瞬にして台風の真っ只中のような喧騒へと変わる。
「……は?」
健太の思考回路がフリーズする。
「なんで……お前らが……ここに……」
「何言ってるのよ。昨日の夜、グループチャットで言ったじゃない。『明日は健太くんの家で、最新AI家電の試運転を兼ねたタコパ(たこ焼きパーティー)をする』って」
玲奈が我が物顔でリビングに入り込み、ソファにブランドバッグを放り投げる。まるで自分の家のような振る舞いだ。
「俺は見てないぞ……通知は切ってたはずだ」
「既読がつかなくても、三時間反論がなければ同意とみなすのよ。現代社会のスピード感、ナメないで」
「それは独裁者の論理だ!」
健太の抗議も虚しく、玲奈は既にキッチンの探索を始めている。
剛がクーラーボックスを床に置く。ズシン、とマンション全体が揺れるような重低音が響いた。
「俺はタコパと聞いて、タコの代わりにプロテイン入りの鶏胸肉団子を持ってきた。タウリンだけじゃ筋肉が泣くからな」
「たこ焼き器の穴をプロテインで汚すな!」
健太の悲鳴に近いツッコミも、剛の筋肉の鎧には届かないようだった。
2.スマートホームの反乱
健太の部屋は、彼の趣味と実益を兼ねた「実験場」だった。
照明、空調、カーテン、そして掃除機に至るまで、すべてが自作のプログラムで制御され、簡易版のAIアシスタントと連動している。
壁に埋め込まれたセンサーが居住者の動きを感知し、最適な室温と照度を提供する――はずの、未来の居住空間だ。
「へえ、これが噂の音声認識システム?」
玲奈がキッチンカウンターに置かれたスマートスピーカーに目を輝かせる。
「触るなよ、まだ調整中なんだ。変な声紋を拾うとバグる」
健太が止めるのも聞かず、玲奈はスピーカーに向かって高らかに叫んだ。
「ねえ、コンピューター! 部屋を『パーティーモード』にして!」
『コマンドを確認。パーティーモード、起動します』
ブウン。
低い駆動音と共に、部屋の照明が毒々しい紫とピンクの点滅(ストロボ)に切り替わった。
大音量で流れ出すサンバのリズム。静寂だったリビングは、一瞬にして安っぽいディスコへと変貌した。
さらに、充電ドックから飛び出した自動掃除機が高速回転を始め、剛の足元にタックルを仕掛ける。
「な、なんだこれは! 敵襲か!?」
剛が掃除機に向かって構えを取る。「この動き……早い! まるで熟練の格闘家のようだ!」
「違う! 戦うな! 玲奈、変なコマンド入れるな! それはデバッグ用のお遊びモードだ!」
健太は慌ててタブレット端末を操作し、強制停止コードを打ち込む。指先が震え、タイピングミスを連発する。
「くそっ、なんで今日に限って反応速度がいいんだ……!」
『ダンス、終了します』
虚しい合成音声と共に、部屋にようやく静寂が戻った。
床には、掃除機を取り押さえようとして転んだ剛と、腹を抱えて笑い転げる玲奈。そして、頭を抱えて座り込む健太。
実験場は、ただの惨劇の現場と化していた。
「……お前ら、帰ってくれ」
「まあまあ。お腹空いたでしょ? 焼くわよ!」
玲奈は何事もなかったかのように、たこ焼き器の準備を始めた。
3.平凡で、愛おしいノイズ
結局、健太の休日は彼らのペースに飲み込まれた。
たこ焼き器の中で、玲奈が持参した激辛ハバネロ入りの「ロシアンたこ焼き」と、剛の「胸肉団子」が混ざり合うカオスな宴。
ジュウジュウと焼ける音と、香ばしい匂いが部屋に充満する。
「熱っ! なんだこれ、マグマか!」
剛が顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あ、それ当たり。今話題の『レッド・リザレクト』よ。死者も蘇るって言われるくらいの辛さが売りなの。剛くん、今年の運勢いいかもね」
玲奈が悪魔のような笑顔で解説する。
「水! 水をくれ!」
ビールを片手に騒ぐ二人を見ながら、健太はため息をつきつつも、口元が緩むのを止められなかった。
平日は国のシステムを守るために神経をすり減らしている。
『MOMO』の膨大なデータを監視し、顔の見えない悪意と戦う日々。それは孤独で、冷たいデジタルの海を泳ぐような作業だ。
けれど、こうして目の前にある「顔の見える騒音」は、不思議と心地よかった。
人間味のある温かいノイズが、疲れた心に染み渡っていくようだ。
「健太、お前も食え。筋肉になるぞ」
「いらん。……でも、普通のやつならもらう」
窓の外では、夕焼けが街を染めていた。
完全な静寂よりも、多少のノイズがあったほうがシステムは安定する――そんな技術論を、ふと思い出した。
人間関係もまた、完璧な調和よりも、多少の衝突や混沌があったほうが健全なのかもしれない。
4.川上からの贈り物
夜9時。
嵐が去った後の部屋は、妙に広く感じられた。
散乱した空き缶と、ソースの焦げ付いたたこ焼き器を片付け終え、健太はようやくいつものワークデスクに座った。
部屋の隅には、掃除機が充電ドックで静かに眠っている。
「ふぅ……やっと静かになった」
彼は眼鏡を拭き直し、日課のシステムチェックの前に、ある「個人的な通信」を開いた。
特殊な暗号化チャットツール。登録されている友人は一人だけ。
アイコンは未設定(デフォルト)のグレーの人型だ。
ログインすると、待っていたかのようにメッセージがポップアップした。
『Unknown:お疲れ様。随分と賑やかな休日だったみたいだね。』
健太は苦笑しながらキーボードを叩く。この相手には、隠し事など通用しない。
部屋のスマートホームシステムを通じて、こちらの状況を把握していたのだろうか。
『犬飼:盗聴ですか? 悪趣味ですよ。おかげで部屋はめちゃくちゃです。「猿」と「雉」が暴れ回ったせいで、スマートホームのセンサーが3つ死にました』
愚痴っぽい返信だが、打つ指は軽やかだ。
相手は、この国のAIインフラを設計した天才プログラマーであり、健太が唯一「頭が上がらない」と思っている人物。
だが、かしこまった敬語を使う必要はない。彼らの間にあるのは、もっとドライで、しかし太い信頼関係だ。
『Unknown:ふふ。でも、君のバイタルデータ、普段よりずっと安定してたよ。やっぱり君には、ああいう騒がしい「仲間」が必要なんだね。』
『犬飼:……余計なお世話です。あいつらは、ただの厄介ごとの種ですよ』
素直になれない健太の返信に、相手は既読をつけると、少し間を置いてから返してきた。
『Unknown:まあ、そう言わずに。君たち3人がいてくれるから、僕も安心して眠れるんだ。……あ、そうそう。迷惑料代わりの「報酬」、送っておいたから。』
『犬飼:報酬? まさか、また怪しいプログラムじゃないでしょうね』
『Unknown:違うよ。もっと「甘くて」、元気が出るやつ。』
その時、デスクの上のスマホが震えた。
宅配便の配送通知だ。
『お荷物のお届け予定:明日午前中』
『ご依頼主:K』
『品名:最高級・岡山県産 清水白桃(特秀)』
健太は画面を見て、思わず吹き出した。
「……季節外れの桃なんて、どこから見つけてくるんだか」
『犬飼:確認しました。相変わらず、気が利くというか、なんというか……。ありがたく頂戴しますよ、ボス』
『Unknown:うん。3人で仲良く分けてね。「お供」たちによろしく。』
チャットがログアウトされ、画面が暗転する。
健太はスマホの画面――そこに映る瑞々しい桃の写真――を眺めながら、椅子の背もたれに深く体を預けた。
姿は見せないし、どこにいるかもわからない。
けれど、こうして川の上流からどんぶらこと何かを流して寄越すみたいに、気まぐれに自分たちを支えてくれる。
「ったく……あんたには敵わないな」
健太は眼鏡の奥で目を細め、静かに笑った。
明日は、冷やした桃でも食べながら、またあの騒がしい連中と仕事をするのも悪くない。
そんなことを思いながら、彼は部屋の明かりを消した。
静寂が戻った部屋には、微かにたこ焼きのソースの香りが残っていた。
(- 愛しみの桃太郎 スピンオフNo.003 – 完)
