オフィス街の昼下がりは、白昼夢のように輪郭が曖昧だった。
アスファルトから立ち昇る陽炎は、無数に行き交う労働者たちの疲労を吸い上げ、都市の上空で巨大な溜息となって渦巻いている。会社員の沖田は、その気怠い熱気の中を、ある「使命」を帯びてコンビニエンスストアへと歩を進めていた。
彼の懐には、一人の偉人が眠っている。渋沢栄一である。
今宵、沖田には逃れられぬ宴――いわゆる会社の飲み会――が待ち受けていた。
会費制という名の集金システムにおいて、幹事に対し「一万円札しか持ち合わせがない」と告げることは、一種の罪である。新紙幣の肖像となったこの「資本主義の父」は、その威厳ゆえに、割り勘の現場ではあまりにも扱いづらい。釣り銭を要求する行為は、幹事の眉間に皺を刻み、円滑な宴の進行を阻害する不粋な振る舞いとして忌避される。
故に、沖田はこの最高額紙幣を崩さねばならない。
彼は渋沢栄一という経済の巨人を、北里柴三郎という名の千円の兵隊たちへと解体する必要があったのだ。それは、社会人としての慎ましやかな配慮であり、あるいは保身のための防衛工作でもあった。
自動ドアが開くと、冷房の人工的な風が沖田の汗ばんだ肌を撫でた。
極彩色に陳列された商品の森を抜け、彼は一本のペットボトル茶を手に取った。喉を潤すことなど二の次だ。これは、一万円札を崩すための「生贄」に過ぎない。百数十円の出費で、九人の北里柴三郎と硬貨の群れを得る。その錬金術こそが目的だった。
レジには、感情を削ぎ落としたような店員が立っていた。
沖田はペットボトルをカウンターに置いた。茶色の液体が揺れ、蛍光灯の光を反射する。
その背後で、財布の中の渋沢栄一が、今まさに外の世界へと引きずり出されようとする予感に震えている――はずだった。
「お支払いは、いかがなさいますか」
店員の問いかけは、あまりにも定型的で、呪文のように滑らかだった。
その瞬間、沖田の脳髄よりも先に、現代社会に調教された彼の「肉体」が反応した。思考の介在する余地などなかった。日々のルーチン、通勤改札での反復動作、キャッシュレスという名の悪魔が、彼の唇を操ったのだ。
「Suicaで」
言った直後、軽快な電子音が鳴り響いた。
「ピピッ」
それは、あまりにも残酷で、取り返しのつかない決済の音だった。
光の速さで電子情報は駆け巡り、沖田のICカードから百数十円分の数値が差し引かれた。財布の奥底で、渋沢栄一は微動だにせず、その位置に鎮座し続けている。
レシートと商品が手渡される。一連の動作は流れるように完結し、そこには一分の隙も、細菌学者が入り込む余地もなかった。
沖田は夢遊病者のような足取りで店の外へ出た。
正午の太陽が、容赦なく彼を射抜く。
彼はペットボトルのキャップを回した。プラスチックが擦れる乾いた音がして、封印が解かれる。茶を一口、喉に流し込む。冷たさと渋みが食道を落ちていくが、胸のつかえは取れない。
彼は右手をポケットに入れた。指先に触れる革財布の厚みは、入店前と何ひとつ変わっていない。
資本主義の父はまだ、そこに幽閉されている。
今夜の飲み会で、彼は再び幹事に頭を下げ、嫌な顔をされながら、あの独特なホログラムが輝く新一万円札を差し出す自身の未来を幻視した。その屈辱、その気まずさ、その社会的敗北。
沖田は、中途半端に温まり始めた空を見上げた。
脳裏に浮かんだのは、ただ一つの、あまりにも滑稽で、かつ真理を突いた独白だった。
「あ、違うや」
その呟きは、都会の喧騒にかき消され、誰の耳にも届くことなくアスファルトに染みていった。
ただ、電子決済の利便性に敗北した男の影だけが、濃く、黒く、地面に伸びていた。
(終)