短編小説『ある少年の記録』

4月12日(月) 晴れ
今日、僕は駅前の丸い池のほとりに立っていた。
天気がいいから散歩でもしようと思ったんだ。
歩き出してすぐに、向こうから親友の太一君が走ってくるのが見えた。
「やあ」と声をかけようとしたけれど、太一君はものすごい形相で、僕の横を駆け抜けていった。
急いでいるのかな?

でも不思議なんだ。僕が池を半周したところで、また太一君とすれ違った。
それだけじゃない。僕がさらに歩くと、また太一君とすれ違う。
僕たちは一言も喋らず、ただ何度も何度もすれ違い続けた。

まるで、そうすることが僕たちの義務であるかのように。

家に帰って時計を見たら、僕たちが初めて出会ってからちょうど90分が経っていた。
いったい何だったんだ。


4月15日(木) くもり
弟がお風呂にお湯を溜めていた。
でも、あいつは変なんだ。
蛇口を全開にしてお湯を入れているのに、なぜか排水溝の栓を抜いている。
「何やってるんだ! お湯がもったいないじゃないか!」と僕が怒っても、弟は虚ろな目でこう言った。

「入る量が出る量より多ければ、いつかはいっぱいになるから」

弟はずっと時計を見ていた。
満タンになる時間を計っているみたいだった。

この家は狂っている。


4月20日(火) 雨
お母さんにお使いを頼まれた。
「1個120円のリンゴと、1個80円のミカンを、あわせて20個買ってきて」と言われた。
それぞれの数は適当でいいらしい。
でもお母さんは代金として、2000円を渡してこう言った。

「おつりが出ないようにしてね」

僕は八百屋の前で立ち尽くした。
好きな数を買えばいいはずなのに、頭の中で何かが「絶対に間違えてはいけない」と囁くんだ。

結局、僕はリンゴ10個とミカン10個を買った。
これ以外に正解がない気がしたからだ。
八百屋のおじさんは無言で頷いていた。

この町の人たちは、みんな何か見えないルールに縛られている気がする。


4月23日(金) 晴れ
今日は最悪だった。
僕が家を出て14分経った頃、後ろから猛スピードで自転車に乗った妹が追いかけてきた。
何か用事があるのかと思って立ち止まったら、妹は追いついた瞬間にUターンして帰っていった。

……意味が分からない。

そのあと公園に行ったら、砂場のふちを、知らないおじさんが行ったり来たりしていた。

端っこまで歩くと壁にタッチして、すぐに折り返すんだ。
ロボットみたいに同じ速さで、もう一時間も繰り返している。

僕は怖くなって逃げ出した。

逃げても逃げても、誰かが僕の速さを計算している視線を感じる。


4月26日(月) 快晴
キーンコーン、カーンコーン。
どこからかチャイムの音が聞こえた。

その瞬間、僕の足はピタリと止まった。
さっきまで息が切れるほど走っていたのに、急に「もう走らなくていいんだ」って体が勝手に判断したみたいだ。

周りの景色も変わった。
池も、公園も、木々も、なんだか薄っぺらくなって、最後には真っ白な紙みたいになって消えてしまった。

あーあ、またこれだ。いつもこうやって急に終わるんだ。

僕がその場に座り込むと、向こうから猫背の男の人が歩いてきた。
手には赤ペンと、ボロボロのノートを持っている。

「お疲れ。さっきの『池の周回』、いいペースだったよ」

男の人は、僕の肩をポンと叩いた。

僕は汗を拭きながら文句を言った。

「あの設定、無茶ですよ。妹の自転車が分速210メートルだなんて。あいつ、バイクでも乗ってるんですか?」

「はは、ごめんね。そうしないと『10分後』に追いつかないからさ」

男の人は悪びれもせず笑って、ノートをパラパラとめくった。そして、申し訳なさそうな顔で言った。

「でさ、ごめん、ちょっと悪いんだけど……今日もお願いね」

嫌な予感がした。

「えっ、まだやるんですか? チャイム鳴りましたよ?」

「急に『追加問題』を作らなきゃいけなくなってさ。次は……そうだな、分速70メートルで駅に向かって歩き出したあと、途中で忘れ物に気づいて、分速120メートルで走って家に戻ってほしいんだ」

「……戻るんですか? せっかく進んだのに?」

「うん。で、家に戻ったら、今度はお兄ちゃんが先に出発していることに気づいて、また追いかけてほしい」

無茶苦茶だ。僕はトライアスロンの選手じゃないのに。

文句の一つも言いたかったけれど、男の人も目の下にクマを作って困った顔をしている。この人も、誰かに言われて無理やり作らされているのかもしれない。

僕はため息をついて、スニーカーの紐をきつく結び直した。

これから僕は、また無意味に歩き、無意味に走り、無意味に往復する。

断ることはできない。そういう運命(さだめ)なのだ。

だってしょうがないじゃない。

なぜなら僕は、「たかし君」なのだから。

(了)


💡 作品世界を深める『読むサプリ』

📖 作品解説:数式の裏側にいる「彼ら」の苦悩

この物語は、学生時代に誰もが抱いたであろう「算数の文章題って、現実的にはありえないよね?」という素朴な疑問を、当事者の視点から描いたものです。

「分速210メートルで走る妹」や「わざと栓を抜いてお湯を溜める弟」など、数学的な正解を導き出すために犠牲にされた「リアリティ」を、あえてホラーや不条理劇のようなトーンで構成しました。

物語の終盤でメタ的な構造が明かされることで、無機質な数式の中に「キャラクターの意思」という異物が混入する面白さを狙っています。普段何気なく解いている問題の裏側に、こんな「中の人」の苦労があったら……と想像を膨らませてみました。

💊 この作品を読む効能(ベネフィット)

この短い物語を読み解くことで、日常にこんな変化が訪れるかもしれません。

  1. 算数問題の「あるある」を楽しむ共感体験
    誰もが学生時代に一度はツッコミを入れたであろう「なぜ栓を抜いたままお湯を溜めるのか」「なぜわざわざ途中で忘れ物を取りに帰るのか」といった理不尽なシチュエーション。その共通の記憶を呼び起こし、「あったあった!」と懐かしい気持ちで笑い飛ばすことができます。
  2. 「勉強」への苦手意識が笑いに変わる
    かつてテスト中に頭を悩ませた「旅人算」や「水槽算」を客観的に眺めることで、当時の苦い記憶を少しだけ和らげるきっかけになります。
  3. 視点の転換力が養われる
    「与えられたルールを疑う」というプロセスを疑似体験することで、日常生活においても「この前提条件は本当か?」と問い直す、少し違った角度の視点を持つことができます。
🖋 作者あとがき

たかし君は、私たちの論理的思考を鍛えるために、何十年もの間、重い荷物を運ばされ、無理な速度で走り、リンゴとミカンを正確に買い続けています。

今も。そしてこれからも。

このお話は、そんな彼らへのささやかな労い、あるいは、不条理な扱いへの同情から生まれたものです。

大人になると、「正解を出さなければならない」という強迫観念に囚われ、物語の中のたかし君と同じように、誰かに決められた数値を追いかけるだけの日々を送ってしまうことがあるかもしれません。もし皆さんが、そういった何かに追い立てられていると感じたときは、一度足を止めてみてください。そして、自分を追いかけてくるのが「分速210メートルの妹」ではないことを確認して、クスッと笑っていただければ幸いです。