短編小説『ある少年の記録2』

5月10日(月) 晴れ
登校中、向こうから留学生のマイクが歩いてきた。
彼はまだ日本に来て3日目のはずなのに、なぜか僕のことを10年前からの親友みたいに「Hi, Ken!」と大声で呼ぶ。馴れ馴れしい。

彼は満面の笑みで僕に近づくと、いきなり僕の目の前にボールペンを突きつけて、大声で言った。

「これはペンですか?」

……は?

僕は恐怖で足がすくんだ。見れば分かるだろ。どう見てもペンだ。

僕が黙っていると、彼はさらに顔を近づけて、ゆっくりと、まるでバカにするように繰り返した。

「こ、れ、は、ペン、で、す、か?」

僕の視力を試しているのか? それとも「お前にはこれが何に見えるんだ?」という哲学的問いかけなのか?

僕が震える声で「はい、そうです」と答えると、マイクは満足げに頷いた。

そして今度は、僕が持っていたノートを指差して、驚いたような顔をして言った。

「それはノートです!」

……知ってるよ。


5月14日(金) くもり
最悪の体調だ。朝から39度の熱がある。
フラフラしながら道を歩いていると、ベーカーさんと会ってしまった。彼女は不気味なほどニコニコしている。

「ごきげんよう、ケン。調子はどう?」

チャンスだ。助けを求めよう。「最悪です。病院へ連れて行ってください」と言おうとした。

なのに、僕の口は勝手に動いた。

「私は元気です、ありがとう。あなたは?」

嘘だ! 全然元気じゃない!

でもダメなんだ。この世界では、どういう訳だか僕たちは絶対に風邪を引けないし、怪我もできない。

彼女は「私も元気です」と答えると、突然ラケットもないのに素振りのマネを始めた。

「私はテニスをプレイするのが好きです。さあ、いっしょにテニスをしましょう」

待ってくれ。今は雨が降りそうだし、僕は熱があるし、そもそもここは商店街だ。

でも僕は笑顔で答えた。「はい、しましょう」

僕たちは虚空を見つめながら、見えないボールを打ち合った。狂っている。


5月20日(木) 雨
友人のトムが家に遊びに来た。
でも今日のトムは様子がおかしい。僕と弟を交互にジロジロ見ている。

そして、勝ち誇った顔でこう言い放った。

「彼は、あなたより背が高い」

……だから何だと言うんだ。

弟の方が背が高い。それは事実だ。でも、わざわざ僕の目の前でそれを宣言する必要があるのか?

トムの暴走は止まらない。今度はテーブルの上のリンゴを指差した。

「このリンゴは、あのリンゴより大きい」

そして、一番端のリンゴを手に取って叫んだ。

「これが3つの中で一番大きい!」

どうでもいい! 誰もリンゴのサイズ選手権なんて開催していない。さっさと食えばいいじゃないか。

でもトムは、自分と僕の持っているペンの長さを比べ、定規でカバンを測り、あらゆるものに優劣をつけ続けた。

マウントを取らないと死んでしまう病気なんだろうか。


5月25日(火) 快晴
──プツン。

空からノイズが走った。CDプレイヤーを停止する音だ。

その瞬間、トムの動きが止まった。街の風景が音もなく色あせていき、ペラペラのわら半紙のような白黒の世界に変わってしまった。

またこれだ。いつもこうやって急に終わる。

向こうから、ジャージ姿の男の人が疲れた足取りで歩いてきた。手には赤ペンと、作りかけのプリントを持っている。

「お疲れ、ケン。さっきの『比較級』、いい発音だったよ」

男の人は僕の肩をポンと叩いた。目の下にはひどいクマがある。

僕は思わず文句を言った。

「あの会話おかしいですよ。友達の身長とかリンゴの大きさとか、いきなり比べ始めて。あいつ嫌な奴すぎませんか?」

「はは、ごめんね。そうしないと『もっとも背が高い』って文法が出せないからさ」

その人は悪びれもせず苦笑いして、プリントに何かを書き込んだ。そして、申し訳なさそうな顔で言った。

「でさ、ごめん。期末テストの作成が間に合わなくて……もう一問お願いしていいかな」

嫌な予感がした。

「えっ、まだやるんですか? チャイム鳴りましたよ?」

「『道案内』のリスニング問題を作らなきゃいけなくてさ。次は……そうだな、駅前の交番に行って、お巡りさんに『すみません、図書館はどこですか?』って聞いてほしいんだ」

「……聞くんですか? この町で生まれて15年なのに?」

「うん。知ってても聞いて。そうしないとお巡りさんが『まっすぐ行ってツーブロック先の曲がり角を右に曲がってください』って答えられないから」

無茶苦茶だ。僕は記憶喪失じゃないのに。

文句の一つも言いたかったけれど、男の人もどこかの部屋で夜遅くまで残業しているのか、髪がボサボサだ。この人も、得体のしれない見えないルールに縛られているのかもしれない。

僕はため息をついて、通学カバンを持ち直した。

「分かりましたよ……。で、そのあとは?」

「うん、ありがとう。図書館に着いたら、ハンバーガーショップに入って」

「ああ、お腹空いたんで何か食べるんですね」

「いや、注文はしなくていい。店員さんがメニューを持ってくるから、それを見てこう聞いてほしいんだ」

男の人は赤ペンで空中にセリフを書いた。

『メニューはありますか?』

「……手に持ってるのに?」

「そう。手に持ったまま聞くんだ。『Do you have ~?』を使いたいから」

僕は天を仰いだ。

これから僕は、知っている道を聞き、持っているメニューを探すフリをする。

断ることはできない。

だってしょうがないじゃない。

なぜなら僕は、日本の英語教育が生んだ「ケン」なのだから。

「すみません。メニューはありますか?」

(了)