あなたが結末を選択する小説『おじさん魔術師』前編 ~指先の魔法~

「見てろよ、今度こそ消えるからな」

ロッカールームのベンチに座り、坂田健一(さかた・けんいち)は人差し指と親指で百円玉を摘まんで見せた。

目の前では、高卒二年目の若手後輩が半笑いでこちらを見ている。

「坂田さん、それもうバレバレっすよ」

「うるさいな。……それっ!」

坂田が右手を振る。百円玉は消えるどころか、袖口からチャリリと虚しい音を立てて床に転がった。後輩が吹き出す。

「ほらー! だから言ったじゃないっすか。坂田さん、マウンドだと凄味があるのに、手品となると途端に不器用になりますよね」

「……俺はな、タネも仕掛けもある『ニセモノ』は苦手なんだよ」

坂田は床のコインを拾い上げ、指についた埃を丁寧に払った。そして、愛用のボールを握り直す。

その瞬間、彼の纏う空気が変わった。

「俺が扱えるのは、タネも仕掛けもない『本物』だけだ。この指先ひとつで、相手の心を動かすことしかできないんだよ」

32歳。社会人野球の古豪チームのエース。

プロ入りの夢は叶わなかったが、社業である営業の仕事をこなしながら、夜はこうして白球を握り続けてきた。

縫い目の一本一本、革の湿度、指のかかり具合。その微細な情報を指先のセンサーで感じ取り、打者の手元で数センチだけボールを動かす。それが坂田の投球術だった。

「じゃあ、行ってくる」

その日は、都市対抗予選の重要な一戦だった。

マウンドに上がると、坂田はいつものように、ロージンバッグの粉をつけた指先をこすり合わせた。

指先の感覚は鋭敏だ。今日の調子は悪くない。

だが、7回裏。相手の四番打者をツーナッシングに追い込んだ、その一球を投げた瞬間だった。

——ブチッ。

肘の内側で、何かが弾けるような音が聞こえた。

激痛というよりは、熱い鉄を流し込まれたような感覚。そして次の瞬間、右腕から力が抜け、指先の感覚がプツリと途絶えた。

「魔法」が、解けた瞬間だった。


「内側側副靭帯の断裂ですね」

数日後、診察室で医師は淡々と告げた。レントゲン写真とMRI画像が、無機質なモニターに映し出されている。

「坂田さん、以前から少し痛みはあったでしょう?」

「……ええ。でも、指先で誤魔化せていたので」

「皮肉なものですね」

医師は興味深そうに、坂田の右手をじっと見た。

「あなたの神経系は、常人よりも遥かに繊細だ。だからこそ、その鋭敏なセンサーが、限界を超えた肘の悲鳴さえも『コントロール可能な情報』として処理してしまっていた」

医師は眼鏡の位置を直し、残酷な二つの選択肢を提示した。

「一つは、保存療法です。野球は引退になりますが、日常生活には支障ありません。会社員として生きていくなら、賢明な判断です」

「もう一つは?」

「トミージョン手術。靭帯の再建手術です。ただし、復帰までには最低でも一年のリハビリが必要です。それに、あなたの年齢を考えると、元の球威が戻る保証はありません」

帰り道、坂田は公園のベンチに座り込んでいた。

右腕は三角巾で吊られている。

32歳。独身だが、そろそろ身を固めたいと考えている彼女がいる。

会社での立場もある。いつまでも夢を追いかけている年齢じゃないことは、痛いほど分かっていた。

(俺の取り柄は、この指先の感覚だけだ)

彼は動かない右手の指先を、左手でそっと包み込んだ。

ザラついた指の腹。ここには、何万球と投げてきた記憶が詰まっている。

誰かの心を動かし、チームを勝利に導き、みんなを笑顔にする。あの瞬間の高揚感は、何物にも代えがたい。

(だけど、手術をしてダメだったら? 会社にも迷惑をかける。彼女だって……)

坂田は夜空を見上げた。

タネも仕掛けもない人生だ。決めるのは、自分しかいない。

彼は震える指先をこすり合わせ、一つの決断を下した。


【Q:さて、彼が下した決断は? ※【ルートA】か【ルートB】を選択してください。】

・【ルートA】
「まだ終わりたくない!」私は意を決して、トミージョン手術を受けることを選択した。

・【ルートB】
「潮時かもしれないな。」私は家族との生活のことも考え、手術を受けずに引退を決意した。