「新しい風が欲しいんだよ、山本君。風というか、嵐がね」
極楽食品の開発部長、佐々木はそう言って、真っ赤なファイルを私のデスクに投げつけた。窓の外はどんよりとした梅雨空。私の気分も同じだった。
私は山本。入社以来、激辛製品開発一筋の、いわゆる「スパイス・ジャンキー」だ。だが、最近の激辛ブームは加熱しすぎている。ただ辛いだけでは、もう誰も見向きもしない。
「来期の社運をかけた新商品だ。頼むぞ」
佐々木のプレッシャーを背中に受け、私は開発室(通称:火薬庫)に籠もった。ステンレスの棚には、これまで私が生み出し、そして散っていった試作品の残骸が並んでいる。
私は埃をかぶった一つの瓶を手に取った。ラベルには**「サウザンニードルス」**とある。

「こいつは……尖りすぎたな」
口に入れた瞬間、千本の針で刺されたような痛みが走るコンセプトだった。モニター試験の結果は惨憺たるもの。「味がない」「ただの拷問器具」と酷評され、お蔵入りになった。
隣にあるのは、文房具のホッチキスを模した容器に入った**「レッド・ホッチキス」**。

「唇を綴じるほどの刺激」というキャッチコピーとポップな見た目は良かったが、特殊な容器のコストがかさみすぎて商品化会議で否決された。
私はため息をついた。市場は混沌としている。
海外からは非常識なスコヴィル値を売りにしたハードコアな輸入品がマニアを席巻し、一方でSNSを開けば、ピンク色の毒々しい見た目で甘さと辛さを融合させた**「メルティーショック」**が若者の間でバズっている。

「暴力的な辛さか、奇抜な見た目か……」
我が社には、高級路線を狙った**「クリムゾン・ライフ」**という既存品があるが、これは一部の美食家にしか届いていない。今求められているのは、マス層を熱狂させ、かつマニアも唸らせる「物語」のある辛さだ。

連日の残業で、私の体は限界に近かった。思考は鈍り、味覚も麻痺しかけている。まるで死人のようだ。
「死人……か」
私はふと、開発室の隅にある冷蔵庫を開けた。
そこにあるのは、最強クラスの唐辛子エキスたち。これらをただ混ぜるだけでは、二番煎じにしかならない。必要なのは、その先だ。死の淵を見た後に訪れる、強烈な生の実感。
「……蘇生だ」
私はビーカーを手に取った。
ベースには、燻製したハバネロを使い、深みのあるスモーキーな香りを出す。そこに、ジョロキアの突き抜けるような辛さを加える。
隠し味として大量のニンニクと、酸味の強い柑橘系のエキスを投入。辛さで一度死んだ味覚を、旨味と酸味で無理やり叩き起こすためのAED(自動体外式除細動器)の役割だ。
ビーカーの中で、鮮血のような液体が渦を巻く。
私はスプーンで一滴すくい、舌に乗せた。
「……っ!」
衝撃が脳天を突き抜けた。熱い。痛い。だが、その直後、燻製の香りと柑橘の酸味が爆発し、唾液が溢れ出した。死にかけていた細胞が、一斉に悲鳴を上げながら活動を再開する感覚。
疲労困憊だった体に、熱い血が巡り始めた。これだ。これならいける。
翌朝、私は佐々木のデスクに、理科の実験用フラスコに入れた真っ赤な液体を置いた。
「部長、嵐を持ってきました」
佐々木は怪訝な顔でそれを一口舐め、むせ返り、顔を真っ赤にし、そして最後に大きく息を吐いた。その目は、昨日までとは違い、ギラギラと輝いていた。
「山本君、これは……目が覚めるな。まるで生き返ったようだ」
「ええ。コンセプトは『死からの帰還』です。現代社会で疲れ切った人々を、強制的に覚醒させるための劇薬」
私はフラスコに貼られた、仮のラベルを指さした。
そこに書かれた名前は、「レッド・リザレクト(赤き蘇生)」。
「これで、市場を生き返らせましょう」
私の言葉に、佐々木はニヤリと笑い、力強く頷いた。開発室の窓の外、梅雨空が割れ、強烈な夏の太陽が顔を出そうとしていた。

***
それから三ヶ月後。「レッド・リザレクト」は、その名の通り我が社の業績を劇的に蘇らせる大ヒット商品となった。
私はその功績で社長賞をもらい、あの埃っぽい「火薬庫」から、高層階にある空調の効いた綺麗な個室オフィスへと異動になった。
昼休み。私はデスクの下から、重厚なアルミのアタッシュケースを取り出した。
カチャリ、と厳重なロックを外して開けると、中には緩衝材に守られた小瓶がずらりと整然と並んでいる。
かつて「味がない」「ただの拷問」と酷評され、全量廃棄処分となったはずの失敗作、**「サウザンニードルス」**だ。私は廃棄の直前、これらを密かに回収していたのだ。
私はコンビニで買ってきた、とろとろのカスタードプリンの蓋を開けた。
そして、「サウザンニードルス」の小瓶を傾け、その無色透明な凶悪液体を、甘いプリンの上へドボドボと惜しげもなく注ぎ込んだ。
黄色い平和な甘味の上に、千本の針が同居する。
「いっただきまーす」
スプーンですくい、口に運ぶ。
瞬間、舌を切り裂くような鋭利な激痛。だが、その痛みの閃光がプリンの濃厚な甘みを極限まで引き立て、脳髄が痺れるような背徳的な快感が駆け抜ける。
「……んんっ、うまい」
私は恍惚の表情で、とろける甘さと刺すような痛みを咀嚼した。
通りがかった部下が、ガラス越しに私の食事を見て青ざめた顔をしていたが、気にする必要はない。
世界中の人々を「蘇生」させた私が、いま一番安らぎを感じるのは、この甘美な拷問の時間だけなのだから。
(終)