春からの新生活に向けて、自室の荷物を整理していた時のことだ。
いるもの、いらないもの。過去、未来。
部屋中に散乱する段ボール箱の隙間で、私はタイムマシーンの操縦席に座っているような気分だった。
自分のクローゼットがおおよそ片付いたので、ついでに両親の寝室にある、今は使われていない古いタンスの中身も整理することになった。
「もう着ない服は、思い切って処分してくれ」と父は言っていたけれど、いざ開けてみると、そこには父の歴史が詰まっていた。
防虫剤のツンとする匂いと、古い繊維の匂い。
流行遅れのネクタイや、少し黄ばんだワイシャツの下から、一着の古いスーツが出てきた。
色はチャコールグレー。生地は擦り切れ、肩のあたりはすっかり形が崩れている。今の父が着たら、きっと窮屈だろう。
ああ、これは父さんが若い頃、毎日戦っていた鎧なのだな、と思った。
処分用の袋に入れようと持ち上げたとき、ふと、昔からの癖が出た。
洗濯物を出す前には、必ずポケットを確認すること。母に口酸っぱく言われてきた習慣だ。
ジャケットの内ポケットに手を入れる。
指先に、カサリ、と乾いた感触が触れた。
「あれ」
つまみ出したのは、すっかり茶色に変色した、古いクリーニング店のタグだった。
プラスチックではなく、厚紙でできた小さい紙きれ。
もう店名も電話番号も薄れて読めないけれど、下の方に、手書きの文字が残っていた。
インクが滲み、薄くなっているが、丸みを帯びた優しい筆跡が読み取れた。
――ポケット、確認しました。
その文字を見た瞬間、私の頭の中で、カチリと音がした。
記憶の奥底にしまわれていた「家族の昔話」が、鮮やかに蘇ったのだ。
「あの時、お父さんは本当に疲れていてね」
父が少し照れ臭そうに、でも懐かしそうに話してくれたことがあった。
仕事が忙しく、余裕がなかった時期。クリーニングから戻ってきたスーツのポケットに、私の小さな靴下が、それはそれは丁寧に包まれて入っていたこと。
「まだ二歳だったお前の、ピンク色の小さな靴下だよ。まるで宝石みたいに扱ってくれていてね。それを見たら、なんだか力が湧いてきたんだ」
あれは、このスーツだったのか。
私はその古びたタグを、壊れ物を扱うようにそっと掌に乗せた。
当時の私は幼すぎて、その出来事を覚えていない。
でも、想像することはできる。
忙しい朝、父の足元にまとわりつく小さな私。
疲れ果ててクリーニング店に向かう父の背中。
そして、その背中から預かったスーツのポケットに、小さな迷子を見つけた店員さんの姿を。
あの時、顔も知らない店員さんが、業務の枠を少しだけ超えて施してくれた手間。
その小さな優しさが、父の心を温め、巡り巡って、今の私まで育ててくれたのだ。
「ポケット、確認しました」
ただの事務連絡のはずのその言葉が、今は違って見えた。
それは、過去から届いた、名もなき誰かからのエールのようだった。
「大丈夫。世界はあなたが思っているより、ちゃんと見ていてくれるし、優しくしてくれるよ」
そう言われている気がした。
これから社会に出ていく私は、きっと父と同じように疲れ果てたり、余裕をなくしたりする日があるだろう。
でも、そんな時、この小さなタグのことを思い出せたら、少しだけ顔を上げられるかもしれない。
私はそのタグを、処分するスーツの山から救い出した。
そして、春から使う新しい手帳の、一番前のポケットにそっと忍ばせた。
窓から入る風が、少しだけ春の匂いを運んできた気がした。
(終)
