正午のチャイムが鳴る二分前、沖田はマウスを握る右手に、祈りに似た力を込めた。
液晶画面の向こう側には、数千、いや数万にも及ぶデータの深淵が口を開けている。これから彼が実行しようとしているバッチ処理は、この半年間で堆積した澱(おり)のようなログを浄化し、新たな秩序を与えるための儀式だった。それはシリコンの迷宮を走破する長い旅路であり、完了までには優に三時間は要するだろう。
カーソルが「開始」という、あまりに簡素なラベルの貼られたボタンの上で震える。
沖田は息を止め、人差し指という肉のハンマーを振り下ろした。
カチッ、という乾いた音が、オフィスの無機質な空気に吸い込まれる。
ハードディスクが唸り声を上げ、冷却ファンが風を孕(はら)む。それは巨獣が冬眠から目覚め、胎動を始めた音に聞こえた。
「頼んだぞ」
沖田は心の中でそう呟き、席を立った。賽は投げられたのだ。これより先、人間の手は不要となる。電子の奔流が時間を貪り食い、論理の積木を組み上げている間、彼はただ、人間としての生理現象と社会的な義務を消化していればいい。
昼食のトンカツは、古びた油の味がした。
同僚の山下が口にする上司への愚痴は、湿気た衣のように粘着質で、沖田の鼓膜を不快に撫でた。だが、沖田は穏やかな微笑を浮かべて相槌を打った。なぜなら、今の彼は「待つ者」だからだ。
この瞬間も、オフィスの机の上で、あの箱は猛烈な速度で演算を続けている。自分が豚肉を咀嚼し、浅薄な会話に興じているこの無為な時間さえも、あそこでは有意義な「進捗(プログレス)」へと変換されている。その事実が、沖田に奇妙な優越感を与えていた。私の時間は、二重に流れているのだ、と。
午後一時からの定例会議は、予想通り形骸化した言葉のキャッチボールに終始した。
ホワイトボードに羅列される空虚な数値。行き場のない議題。
窓の外では、春の日差しが少しずつ傾き、影を伸ばしていく。
沖田は手元の資料に目を落としながら、遠く離れた自身の端末に思いを馳せた。そろそろ七〇パーセントを超えたあたりか。いや、あの複雑な結合処理(ジョイン)を抜けて、八〇パーセントに達しているかもしれない。
会議室の退屈な時間は、彼にとって熟成のための暗闇だった。この退屈が深ければ深いほど、席に戻った時に迎える「処理完了」の四文字は、甘美な輝きを放つはずだ。
一六時一五分。
会議は終わった。沖田は軽い疲労と共に、しかし確かな期待を胸に自席へと向かった。
フロアには西日が差し込み、空気中の塵が黄金色に舞っている。
彼のパソコンは、スクリーンセーバーの漆黒に沈黙していた。その静けさは、激しい闘争を終えた戦士の休息を思わせた。
終わったのだ。
沖田は安堵の息を漏らしながら、マウスを揺らした。
眠っていた画面が覚醒する。網膜を焼くバックライトの光。
そこには、彼が夢想した「完了」の文字も、誇らしげな緑色のプログレスバーもなかった。
灰色の小さなウィンドウが、画面の中央に、墓標のように鎮座していた。
『処理を開始します。よろしいですか? はい/いいえ』
沖田の思考が、白い霧の中に霧散した。
世界の解像度が急激に低下し、耳鳴りだけが鋭く響く。
開始します、よろしいですか。
よろしいですか、だと?
沖田はその文字列を、象形文字でも解読するように凝視した。
四時間前、確かに自分はボタンを押した。だが、この機械仕掛けの悪魔は、処理を始めたのではなかった。「処理を始めてもよいか」という問いを生成し、その回答を、四時間もの間、忠犬のように待ち続けていたのだ。
油の回ったトンカツを食べている間も、無意味な会議で頷いている間も、西日が床を這いずっている間も。
この箱は、ただひたすらに、主人の「はい」という同意だけを待って、一歩も動かずに時を止めていた。
ここにあったのは進捗ではない。純粋な、混じりっけのない「停止」だった。
沖田の脳裏を、同僚との会話や会議の議事録が走馬灯のように駆け巡り、そして燃え尽きた。それらは「処理中の暇つぶし」として意味を持つはずだった。だが、処理が始まっていない今、それらは単なる「浪費された人生」へと姿を変えた。
「……は」
乾いた笑いが喉から漏れた。
このウィンドウは、問うているのだ。沖田の四時間を。その不可逆な消失を。
ここで「いいえ」を選べば、全ては無かったことになる。だが「はい」を選べば、今この瞬間から、再び三時間の煉獄が始まる。定時退社という概念は消滅し、残業という名の受刑が確定する。
沖田は震える指を、「はい」のボタンへと這わせた。
それは四時間前と同じ動作だった。だが、その指先に宿る重みは、絶望的なまでに異なっていた。
彼はクリックした。
カチッ。
先ほどと同じ、乾いた音がした。
ファンが唸り、ハードディスクが回転を始める。
モニターの右下で、時刻表示だけが冷酷に一六時一八分を刻んでいた。
西日が沖田の横顔を照らす。その瞳は、何処か遠く、戻ることのない時間の彼岸を見つめていた。
(終)