チュン、チュン……。
小鳥のさえずりが、遠くから聞こえてきた。
「……んぅ」
理沙は、センターの奥にある仮眠用のソファで目を覚ました。
体が軽い。
あの鉛のような重だるさも、骨の髄まで凍える悪寒も、嘘のように消えている。
恐る恐る背中に手を回してみる。つるりとした肌の感触。
あの忌まわしい「黒い蔦(つた)」は、跡形もなく消え去っていた。
「目が覚めましたか」
穏やかな声に、理沙は飛び起きた。
カウンターの方を見ると、二人の男がいた。
一人は、真っ白なスーツを着て、優雅に缶コーヒー(微糖)を飲んでいる男――相沢。
もう一人は、ボロボロのTシャツ姿で、カップラーメンをズルズルと音を立てて啜っている、柄の悪い男――須藤。
「あ、あの……あなたたちは……?」
相沢が微笑み、カップラーメンの汁を飲み干した須藤が「あー、食った」と行儀悪く箸を置いた。
「私たちは同業者ですよ。ただし、あなたより少しだけ先輩のね」
相沢はそう言うと、手にはめていた白い手袋をゆっくりと外した。
一瞬、理沙の視界が白く染まった。
物理的な光ではない。相沢の体から溢れ出る、圧倒的に純粋で、強大な「光のオーラ」だ。
それは理沙の微弱な能力とは次元が違った。まるで、ロウソクの火と太陽ほどの差がある。
そして、隣の須藤からも、また別のプレッシャーを感じた。
荒々しく、しかし研ぎ澄まされた刃物のような鋭い波動。
彼がその気になれば、理沙の精神など一瞬で切り刻めるだろう。
「ひっ……」
理沙は震え上がり、ソファの上で小さくなった。
(すごい……私なんて、足元にも及ばない。今まで私、自分は特別だなんて思い上がって……井の中の蛙だったんだ)
理沙の目から、涙が溢れ出した。
「ごめんなさい……私、人助けのつもりだったのに……みんなを傷つけて……とんでもないことを……」
「ええ、とんでもないことでしたよ」
須藤がふんと鼻を鳴らした。
「あんたの出した汚物の処理をさせられた俺の身にもなってみろ。一生分のトラウマもんだ」
「す、すみません……!」
理沙は土下座の勢いで頭を下げた。
「私、もう辞めます! こんな危険なこと、私にはできません! 資格なんてありません!」
「辞めるのは自由ですが」
相沢が冷たい声で遮った。
「あなたのその『能力』は、仕事を辞めても消えませんよ」
理沙が顔を上げると、相沢は真剣な眼差しで彼女を見下ろしていた。
「あなたは無意識に感情を吸い寄せてしまう体質だ。正しい制御法(コントロール)を学ばなければ、またいつか必ず暴発して、今度こそ死ぬでしょう。……あるいは、完全にバケモノになって殺処分されるか」
「そんな……じゃあ、どうすれば……」
「仕事を続けなさい。そして、現場で学びなさい。ただし」
相沢はニコリと笑った。
「今日からは、厳重な『監視付き』でね」
相沢は視線を横に向けた。
「須藤さん。彼女の教育係をお願いします」
「ぶふっ!!」
須藤が飲みかけた水を吹き出した。
「はあ!? ふざけんな! なんで俺がこいつの子守りをしなきゃなんねえんだよ! 吉祥寺で引き取れよ!」
「適任だからですよ」
相沢は平然と答えた。
「彼女がまた暴走しかけた時、その不協和音(ノイズ)をいち早く察知できるのは、耳の良いあなたしかいない。それに……」
相沢は須藤の耳元で、楽しげに囁いた。
「私の『貸し』、まだ残ってますよね? 今回の件、本部に提出する報告書に、あなたの活躍を『英雄的』に書くか、それとも『協調性のない問題児』と書いて査定を下げるか……」
「……チッ!!」
(俺が送った高級コーヒー豆が、無かったことになってやがる……)
須藤は盛大に舌打ちをし、頭をガシガシとかきむしった。
「悪魔かてめぇは! ……分かったよ、やりゃあいいんだろ!」
須藤は理沙の方を向き、サングラス越しに睨みつけた。
「おい、巣鴨。勘違いすんなよ。俺は優しくねえぞ。スパルタだ。泣いても知らねえからな」
「は、はいっ! よろしくお願いします!」
***
それからの日々は、理沙にとって地獄……いや、修行の日々となった。
カランコロン。
「いらっしゃいませ!」
客が来るたびに、カウンターの奥には、腕組みをして仁王立ちする須藤の姿があった。
(彼は非番の日や休憩時間に、わざわざ新宿から出向いてきていた)
理沙がお年寄りの「寂しさ」を感じ取り、無意識にそれを吸い取ろうと手を伸ばすと――。
パコッ!
須藤が丸めた雑誌で、理沙の頭を叩いた。
「いった!」
「吸うなバカ! お前は掃除機か!」
「で、でも、辛そうだから……」
「同情すんな。感情に触れるな。『見る』だけにしろ」
須藤は厳しく指導した。
「いいか、客の荷物は客のものだ。重かろうが汚かろうが、勝手に背負ってやる必要はねえ。お前はただ、それを『整理』して返すだけでいいんだよ」
「整理……」
「受け流せ。自分の中に入れるな。右から左へスルーしろ」
須藤の口は悪かったが、その指導は的確だった。
理沙は少しずつ、「感情に呑み込まれずに、ただ観察する」技術を身につけていった。
巣鴨の街にも、穏やかな日常が戻っていた。
赤パンツを奪い合っていたおばあちゃんたちも、今では仲良くお茶を飲み、あのボランティアの金子さんも、少ししおらしくなってゴミ拾いをしている。
***
ある晴れた午後。
一人の小さなおじいさんが、センターを訪れた。
「あの……孫から届いた手紙を、どこかで落としてしまったようで……」
おじいさんは涙目だった。大切な宝物を失くした悲しみと焦り。
その感情は、雨に濡れた段ボールのような匂いがした。
理沙は、後ろで監視している須藤をチラリと見た。
須藤は何も言わず、顎で「行け」と合図した。
理沙は深呼吸をした。
(吸い取っちゃダメ。ただ、探すだけ)
彼女は「可哀想」という感情をグッとこらえ、能力を「探索」だけに集中させた。
視覚と嗅覚を研ぎ澄ます。
段ボールの匂いの軌跡を辿る。
「……ありました」
理沙は、待合室の座布団の隙間に挟まっていた封筒を見つけ出した。
そこには、少しの「焦り」が付着していたが、理沙はあえてそれに触れなかった。
ただ、埃を払うように手で撫でただけだ。
「これですね?」
「ああ! これだ! よかったぁ……」
おじいさんは封筒を胸に抱きしめ、くしゃくしゃの笑顔になった。
「ありがとう、お嬢さん。本当にありがとう」
その笑顔を見た瞬間、理沙はハッとした。
魔法を使って不安を消さなくても、吸い取ってあげなくても。
ただ「見つける」だけで、人はこんなに素敵に笑えるんだ。
「……どういたしまして!」
理沙は、今までで一番自然な笑顔で答えた。
おじいさんが帰った後、須藤が鼻を鳴らした。
「……フン。まあ、及第点だな」
彼は壁から背を離し、出口へと歩き出した。
「俺は帰る。新宿の地下が恋しくなってきた」
「あ、須藤さん! お茶淹れます!」
理沙が呼び止めるが、須藤は振り返らずに手を振った。
「いらねえ。泥水はもうこりごりだ」
そう言い捨てて、不機嫌な教育係は雑踏へと消えていった。
***
理沙はカウンターに戻り、大きく伸びをした。
背中は軽い。
もう、誰も背負っていない。
でも、心は満たされていた。
『巣鴨駅 遺失物取扱センター』
ここは、吉祥寺のようなプロフェッショナルな場所でも、新宿のような危険な場所でもない。
小さくて未熟な「見習い」が、厳しい師匠に怒られながら、今日も誰かの心を少しだけ軽くする場所。
「さて、仕事しよっ!」
理沙の明るい声が、地下の小さな部屋に響いた。
「いらっしゃいませ! どのようなお忘れ物ですか?」
(『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』 完)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。
Next Season…
連載小説『感情の忘れ物4 秋葉原・影山リアム編』
Coming soon…。お楽しみに!


