小学四年生になるななみちゃんは、リビングのテーブルに広げたカレンダーを前に、大きなため息をつきました。
「ねえお母さん、やっぱり今度の日曜日もダメなの?」
キッチンから顔を出したお母さんも、困ったような、少し寂しそうな顔で頷きます。
「そうなの。さっきお父さんから電話があってね。『ごめんな、今月はずっと大きなプロジェクトが続いていて、休みが取れそうにないんだ』って」
ななみちゃんとお母さんには、ある計画がありました。
それは、毎日家族のために一生懸命働いてくれているお父さんに、内緒で「お礼の会」を開くことでした。
お父さんは最近、本当に忙しい日々を送っています。昼も夜も問わず、都心の高層ビルにあるオフィスに缶詰め状態で、愛する家族との時間さえ削って戦っているのです。
「せっかく、お父さんの好きな日本酒と、すごいごちそうを用意しようと思ってたのにね」
「うん……。お小遣い貯めて、かっこいいネクタイもプレゼントしようって決めてたのに」
ななみちゃんはカレンダーを指でなぞりました。お父さんの仕事が大変なのは分かっていますが、やっぱり会えないのは寂しいものです。
そんな時でした。
新聞の折り込みチラシを片付けていたお母さんの手が、ふと止まりました。
「……ななみ、ちょっとこれ見て」
お母さんが差し出したのは、一枚のカラフルなチラシです。そこには大きな文字でこう書かれていました。
『あなたの思いを込めて、夜空に花火を打ち上げよう —— 来月開催、メッセージ花火募集中!』
それは、来月行われる地元の花火大会の特別企画でした。協賛金を出し、メッセージを添えれば、その人のためだけの花火を打ち上げてくれるというのです。
「これだ!」
ななみちゃんとお母さんは、顔を見合わせて叫びました。
「お父さんの会社、この花火大会がある河川敷のすぐ近くだよね?」
「そうよ! あそこなら、会社からでも絶対に見えるわ。それに、会場のアナウンスもお父さんに届くかもしれない」
直接会ってお祝いすることはすぐにはできないけれど、これならお父さんを驚かせることができます。しかも、本番は来月です。今から申し込めば、特別な形の花火だってオーダーできるかもしれません。
「お父さん、来月までお仕事頑張るって言ってたもんね。これが最高の応援になるはず!」
二人はすぐにペンを取り出し、頭を突き合わせて作戦会議を始めました。
「どんな形の花火にする?」
「やっぱり、気持ちが伝わる形がいいよね」
沈んでいたリビングの空気が、一気にワクワクとしたものに変わっていきました。二人は心を込めて応募用紙を書き上げ、ポストへと投函したのです。
そうして、待ちに待った花火大会の当日がやってきました。
ドォン、という腹に響く音とともに、窓の外の闇が鮮やかに彩られました。
お父さんは、冷めきった缶コーヒーを一口すすり、疲れ切った目をこすりました。休日の、誰もいない静まり返ったオフィス。聞こえるのは、自分のパソコンの駆動音と、遠くから聞こえる祭りの喧騒だけです。
高層ビルの窓から見下ろす河川敷の花火は、まるで別世界の出来事のように華やかです。お父さんはふと時計を見ました。時刻は十九時三十分。そろそろフィナーレの時間です。
「……さて、休憩もこれくらいにしておかないとな」
お父さんはそう独り言をこぼしましたが、すぐには仕事に戻りませんでした。スマートフォンを手に持ち、名残惜しそうに窓の外の会場方向をじっと見つめています。きっと、家族もあの中のどこかで見ているはずだからです。
その時でした。
微かですが、厚い窓ガラスを通して、外の巨大スピーカーから流れる司会者の声が漏れ聞こえてきました。
「えー、続きましては……特別なメッセージ花火の打ち上げです。えー、ペンネーム『いつもありがとうの二人』さんから。大切な方へのメッセージを読み上げます」
司会者の高揚した声が、夜空に響き渡ります。お父さんは、「おや?」と耳を傾けました。
『毎日遅くまでお仕事、本当にお疲れ様です。いつも私たちのために頑張ってくれて、ありがとう。世界で一番大好きで、かっこいいお父さんへ。お母さんと、ななみより、愛を込めて』
お父さんは、持っていたスマートフォンを取り落としそうになりました。
「……え? まさか」
思考が完全に停止したその瞬間、ヒュルルル……と一際高く鋭い音が鳴り響き、夜空の真ん中で、特大の花火が炸裂しました。
ドォォォン!!
それは、視界に入りきらないほど大きな、真っ赤なハートの形をした花火でした。
キラキラと赤い光の尾を引きながら、ゆっくりと夜空に広がっていきます。その光は、ビルの窓ガラスを赤く染め、お父さんの驚いた顔を優しく照らし出しました。
「あいつら……」
お父さんは呆然と立ち尽くし、窓ガラスに手を当てました。ガラスに映る自分の顔が、みるみるうちに歪んでいくのが分かります。目頭が熱くなり、視界が滲んで、美しい夜景がぼやけてしまいました。
すると、手の中で握りしめていたスマートフォンが震えました。まさに今、かけようとしていた相手、「お母さん」からの着信です。
「もしもし!」
震える声で応答ボタンを押すと、電話の向こうから、花火の音と雑踏の賑わい、そして、弾むような娘の声が飛び込んできました。
「お父さん! 見た!? 今のすっごくおっきなハート、お父さんのための花火だよ!」
「ああ……見たよ。見た。すごく……すごく、綺麗だった」
言葉がうまく出てきません。喉の奥が熱くて、声が詰まってしまいます。
「あなた、お仕事お疲れ様」と、妻の穏やかで優しい声も重なりました。「今日はね、会場の中でも一番よく見える特等席を取れたの。ここからだと、あなたのビルもよく見えるわ」
「そうか……。ありがとう。最高のプレゼントだよ。本当に、こんなに嬉しいこと、他にないよ」
お父さんは涙声をごまかすように笑いました。そして、ふと申し訳ない気持ちがこみ上げてきました。自分だけが、何もしてやれていないような気がしたからです。
「ごめんな。僕ばっかり、こんなに幸せな思いをして……」
すると、電話の向こうのお母さんは、ふふっと優しく笑ってこう言いました。
「何言ってるの。私たちだって、あなたからはもう『十分すぎるくらい』もらってるわよ」
「えっ?」
「パパ大好きー! お仕事がんばってね!」
ななみちゃんの元気な声が重なり、お父さんは何も言えなくなってしまいました。
ただただ、胸がいっぱいでした。離れていても、家族の心は確かに繋がっている。そう確信できたからです。
通話を終えた後、お父さんはデスクに飾ってある小さな家族写真フレームを手に取りました。写真の中の妻と娘が、さっきの花火よりも眩しい笑顔でこちらを見ています。
「よし」
まだ仕事は山積みです。今夜中に終わるかも分かりません。でも、不思議と体は軽く感じられました。
お父さんは、先ほどまでとは違う、穏やかで力強い眼差しで再びパソコンに向き合いました。
静かなオフィスの中、お父さんの心の中には、あの真っ赤なハートの花火のような、消えることのない温かい光がしっかりと灯っていたのでした。
(おわり)
