ドォン、という腹に響く音が始まりの合図でした。窓の外の深い闇が、鮮やかな光の粒で彩られていきます。
お父さんは、冷めきった缶コーヒーをデスクに置き、大きく伸びをしました。休日の、誰もいない静まり返ったオフィス。聞こえるのは、自分のパソコンの駆動音と、遠くから聞こえる祭りの喧騒だけです。
お父さんは、しきりに腕時計を気にしています。時刻は十九時三十分。
「……よし、そろそろ時間だ」
誰に聞かせるでもなく呟くと、お父さんはデスクに置いていたスマートフォンを手に取り、画面をじっと見つめました。
実は、お父さんにも「計画」があったのです。
今月、家族との時間を犠牲にしてまで働き詰めていたのは、もちろん会社のためでもありますが、もう一つ理由がありました。それは、来月迎える妻との結婚記念日と、ななみちゃんの誕生祝いを兼ねた、とびきりの旅行資金を稼ぐためでした。
しかし、その前に「今月の日曜日」を潰してしまったお詫びをしなくてはなりません。
お父さんは、二人が花火大会に行くと聞いて、こっそり手配をしていたのです。
(今頃、河川敷で見てくれているかな……)
彼が用意したのは、花火大会のフィナーレ直後、会場近くの大型ビジョンに流れる「家族への感謝メッセージ」のサプライズ広告でした。
『いつも支えてくれてありがとう。来月は必ず埋め合わせをするよ。パパより』
その短いメッセージが流れるのが、十九時三十分過ぎ。まさに今です。
お父さんは、その瞬間に電話をかけて、「ビジョンを見て!」と伝えて驚かせてやろうと企んでいたのです。発信ボタンに指をかけ、今か今かとタイミングを計ります。
その時でした。
微かですが、厚い窓ガラスを通して、外の巨大スピーカーから流れる司会者の声が漏れ聞こえてきました。
「えー、続きましては……特別なメッセージ花火の打ち上げです。えー、ペンネーム『いつもありがとうの二人』さんから……」
お父さんの指が止まりました。「おや?」と耳を傾けます。
『毎日遅くまでお仕事、本当にお疲れ様です……世界で一番大好きで、かっこいいお父さんへ……』
読み上げられるメッセージに、お父さんは息を呑みました。まさか。そんなはずはない。思考が追いつきません。
ヒュルルル……と一際高く鋭い音が鳴り響き、夜空の真ん中で、特大の花火が炸裂しました。
ドォォォン!!
視界に入りきらないほど大きな、真っ赤なハートの形。
それは、お父さんが用意した文字だけのメッセージよりもずっと雄弁で、熱烈な、家族からのラブレターでした。
「あいつら……先を越されたなぁ」
お父さんは、呆然と立ち尽くし、窓ガラスに手を当てました。自分がしようとしていたサプライズが、何倍もの大きさになって返ってきたのです。
まさに電話をかけようとしていたその指が震え、スマートフォンの画面が滲んで見えなくなりました。
すると、その手の中のスマートフォンが震えました。「お母さん」からの着信です。
お父さんは、慌てて涙を拭い、深呼吸をしてから電話に出ました。
「もしもし!」
「お父さん! 見た!? 今のすっごくおっきなハート!」
弾むようなななみちゃんの声と、妻の優しい声が聞こえてきます。
「ああ……見たよ。見た。すごく……すごく、綺麗だった」
お父さんの声は、感極まって少し震えていました。
「あなた、お仕事お疲れ様」妻が言いました。「今日はね、会場の中でも一番よく見える特等席を取れたの。ここからだと、あなたのビルもよく見えるわ」
お父さんはハッとしました。「特等席」というのは、花火が見やすい席という意味だけではなく、きっと「大型ビジョン」もよく見える場所のことでしょう。妻のことだから、全てお見通しかもしれません。
「そうか……。ありがとう。最高のプレゼントだよ。本当に、こんなに嬉しいこと、他にないよ」
お父さんは素直に感謝を伝えました。それと同時に、自分も驚かせようとしていたはずが、逆に一本取られてしまったような気恥ずかしさと、少しの申し訳なさが込み上げてきます。彼は照れ隠しのように、こう続けました。
「ごめんな。僕ばっかり、こんなに幸せな思いをして……」
すると、電話の向こうのお母さんは、ふふっと優しく笑ってこう言いました。
「何言ってるの。私たちだって、あなたからはもう『十分すぎるくらい』もらってるわよ」
その言葉の響きに、お父さんは確信しました。
彼女たちは、ビジョンのメッセージも見てくれたのだと。
「えっ?」
「パパ大好きー! お仕事がんばってね!」
ななみちゃんの元気な声が重なり、お父さんは何も言えなくなってしまいました。
お互いのサプライズは、少し不格好な形でぶつかってしまいましたが、その分、お互いを思う気持ちは二倍になって心に届きました。
通話を終えたお父さんは、デスクに飾ってある家族写真を見つめ、ニッコリと微笑みました。
「よし、ラストスパートだ」
お父さんのパソコンを打つ軽快な音が、再び静かなオフィスに響き始めました。その背中は、さっきまでよりもずっと力強く、幸せそうに見えました。
(おわり)
