あの「矛盾」騒動から数日後。都の市場には、再びあの商人の通る声が響き渡っていた。前回の儲けで新調したのか、羽織の質が少しばかり良くなっている。
「さあさあ、お立ち会い! 前回の『最強の矛と盾』に続き、本日も天下の奇品をご用意いたしました! 越(えつ)の国より取り寄せし、摩訶不思議な絡繰(からく)り椅子でございます!」
商人の前には、またもや黒山の人だかり。その中心には、奇妙な形の木製の椅子が置かれていた。座面は平らだが、脚が地についていない。底が巨大な半球状になっており、まるで大きな「おわん」の上に椅子が乗っているようだ。
商人は、その奇妙な椅子を足で軽く蹴飛ばした。
ごろん、と椅子は大きく傾いたが、すぐにゆらゆらと揺れながら、元の真っ直ぐな姿勢に戻った。
「ご覧あれ! この椅子、名を『不倒の神椅子(かみいす)』と申します!
押しても、引いても、蹴飛ばしても! 決して倒れたままにはならず、必ず自力で起き上がる! まさに不滅、不屈の椅子でございます!」
観衆からは「ほう、面白い」と声が上がるが、それ以上に怪訝な顔が多い。その中から、見覚えのある浪人が、またしても前に進み出た。
「おい、商人。またお前か」
「おや、先日はどうも。おかげさまで『最強』は完売いたしましたよ」
商人はニヤリと笑う。浪人はため息をつき、目の前の奇妙な物体を指さした。
「今度は何だ。確かに倒れはしないようだが、それはただの巨大な『起き上がりこぼし』だろう。
見てみろ、常にゆらゆら揺れていて、落ち着かないことこの上ない。これでは座って茶も飲めぬ。そんな不安定な代物を、よくも『椅子』などと呼べたものだな」
浪人の鋭い指摘に、観衆も「そうだそうだ」「使い物にならん」と頷き始める。
だが、商人は動じない。むしろ、待ってましたとばかりに胸を張った。
「フフフ、お客さん。そこが凡人には分からぬところ」
「何だと?」
「お客さんは、椅子を『体を休めるための道具』だとお思いでしょう? その考えがすでに古い!」
商人は、ゆらゆら揺れる椅子を愛おしそうに撫でた。
「これは、座るための椅子ではございません。『人生の師』となる椅子なのです!」
「……師?」
「左様! 人生、山あり谷あり。誰しも躓(つまず)き、転ぶことがございます。仕事で失敗し、賭け事で負け、友に裏切られ……心折れそうになる夜もあるでしょう」
商人の言葉に、浪人は少しだけ眉を動かした。心当たりがあるらしい。
「だが! この椅子をご覧なさい! 何度蹴飛ばされても、どんなに深く傾いても、決して諦めず、必ず自力で天を向いて起き上がる!
この姿こそ、我々が目指すべき『不屈の精神』そのものではありませんか!」
商人は拳を握りしめ、熱弁を振るう。
「座りにくい? 当たり前でございます!
これは安らぎを得るための軟弱な椅子ではない。己がだらけそうになった時、この不安定な座面に腰を下ろし、体幹を鍛え、精神を統一する……いわば『修行の椅子』!
そして、くじけそうになった時、この椅子が起き上がる様を見て、己を奮い立たせるのです!『あの椅子ができるのだ、俺にできぬはずがない!』と!」
市場は静まり返った。皆、ゆらゆらと揺れるだけの木塊が、急に高尚な精神の象徴に見えてきたのである。
「さあさあ! この『不屈の精神』、今ならたったの金一両!
一生モノの師匠を雇うと思えば、安いものでしょうが! いかがかな!」
浪人はしばらく腕組みをして、その奇妙な椅子を睨みつけていたが、やがてフッと笑い声を漏らした。
「……フン。相変わらず口の減らん男だ。
だが、まあ……『修行の椅子』か。最近、剣の稽古で体が鈍っていたところだ。悪くない」
浪人は懐から金一両を取り出し、商人に放り投げた。
「まいどあり!」
こうして商人は、ただの座りにくい失敗作の椅子を、「不屈の精神の象徴」という付加価値をつけることで、まんまと売りさばいてしまった。
後日、その浪人の家では、ゆらゆら揺れる椅子の上で、脂汗をかきながら必死にバランスを取って茶を飲もうとする男の姿が目撃されたという。
それが修行になったのかどうか――それは、定かではない。
(終)
