短編小説『矛盾を売る男3 ~静寂の鳴子~』

じりじりと肌を焼くような夏の午後。都の市場は暑さにうだっていたが、あの一角だけは、熱気とは別の興奮に包まれていた。

「さあさあ、お立ち会い! 暑気払いはいかがかな! 本日お持ちしたのは、西の彼方、天竺(てんじく)の高僧が愛用したという、世にも稀なる『風鈴』でございます!」

例の商人が、またしても涼しい顔で声を張り上げている。

人だかりの中心には、透き通るような美しい硝子(ガラス)の風鈴が吊るされていた。短冊が風に揺れ、見た目には何とも涼やかだ。

その最前列に、いつもの浪人が腕組みをして立っていた。

「ふん。今日は風鈴か。だが商人よ、先ほどから風は吹いているのに、その風鈴、ちっとも鳴らんではないか」

浪人の言う通りだった。短冊はパタパタと激しく揺れているのに、肝心の音が全くしない。

よく見れば、硝子の縁を叩くはずの「舌(ぜつ)」の部分が、硬い玉ではなく、ふわふわとした真っ白な「綿(わた)」で作られているのだ。

これでは、いくら揺れても音が鳴るはずがない。

「おいおい、不良品か?」

「音が鳴らなきゃ、ただの飾りだろ」

観衆から口々に不満が漏れる。浪人は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。

「どうだ。仕入れ値をケチって、部品を間違えたか? 綿の舌など聞いたこともない。これでは涼も取れぬぞ」

しかし。

商人は、待ってましたとばかりに扇子をパチリと鳴らした。

「嘆かわしい! ああ、実に嘆かわしい!」

「な、何だと?」

「お客さん、そして其処(そこ)にいる旦那。あなた方は、まだ『耳』で音を聞こうとしているのですか?」

商人は憐れむような目で観衆を見渡した。

「普通の風鈴は、チリンチリンとやかましい。あれは言わば、風が『俺はここにいるぞ!』と叫んでいるようなもの。そんな騒音で、真の涼が得られましょうか? いえ、得られない!」

商人は、音のしない風鈴をうっとりと見上げた。

「この風鈴の名は『静寂の鳴子(なるこ)』。

ご覧なさい。綿の舌が優しく硝子を撫でている……。音がしないからこそ、我々は全神経を集中し、目には見えぬ『風の気配』そのものを肌で感じることができるのです」

商人は浪人に向き直り、声を潜めた。

「旦那、あなたは剣の使い手とお見受けする。達人同士の立ち合いにおいて、本当に怖いのは『剣戟(けんげき)の音』ですか?」

「……なに?」

「違いますね? 剣が触れ合う前の、張り詰めた『静寂』。相手の『殺気』。音もなく忍び寄る一瞬の隙……それこそが真剣勝負でしょう」

浪人の眉がピクリと動いた。痛いところを突かれた顔だ。

「この風鈴は、その感覚を養うための『高次元の武具』なのです!

安っぽい音に頼らず、揺れる短冊と、無音の振動だけで風の動きを読む。これができれば、背後に立つ敵の吐息さえも聞き逃さない『心眼』ならぬ『心耳(しんじ)』が開眼するでしょう!」

商人は一気に畳み掛ける。

「騒がしい俗世を離れ、静寂の中で風を読む。これぞ『禅』の境地!

凡人は音を楽しみ、達人は静寂を聴く!

さあ、この究極の静けさ、金一両でお譲りしましょう。それとも旦那は、まだ子供のようにチリンチリンと鳴るオモチャがお好みかな?」

浪人はしばらくの間、無音で揺れる風鈴を凝視していた。

彼の脳裏には、静寂の中で研ぎ澄まされる自身の姿――そして、「達人」という甘美な響きが駆け巡っていた。

「……『心耳』か。

確かに、最近の俺は五感に頼りすぎていたかもしれん。……ふん、一本取られたな」

カラン、と乾いた音がして、商人の手元に金一両が落ちた。


――数日後。

うだるような暑さの中、浪人の長屋では、締め切った部屋で男が一人、脂汗を流して座禅を組んでいた。

軒先には、音の鳴らない風鈴がゆらゆらと揺れている。

「……聞こえる。……俺には、風の声が聞こえるぞ……」

浪人がカッと目を見開き、研ぎ澄まされた感覚で背後を振り返ったその時。

「ブゥゥゥゥゥゥン……」

一匹の蚊が、悠々と彼の頬に止まり、血を吸い始めた。

「……あ、あれ?」

無音の風鈴は、蚊の羽音までは消してくれなかったようだ。

パチン! という自分の頬を叩く虚しい音が、静寂の長屋に響き渡った。

(終)