じりじりと肌を焼くような夏の午後。都の市場は暑さにうだっていたが、あの一角だけは、熱気とは別の興奮に包まれていた。
「さあさあ、お立ち会い! 暑気払いはいかがかな! 本日お持ちしたのは、西の彼方、天竺(てんじく)の高僧が愛用したという、世にも稀なる『風鈴』でございます!」
例の商人が、またしても涼しい顔で声を張り上げている。
人だかりの中心には、透き通るような美しい硝子(ガラス)の風鈴が吊るされていた。短冊が風に揺れ、見た目には何とも涼やかだ。
その最前列に、いつもの浪人が腕組みをして立っていた。
「ふん。今日は風鈴か。だが商人よ、先ほどから風は吹いているのに、その風鈴、ちっとも鳴らんではないか」
浪人の言う通りだった。短冊はパタパタと激しく揺れているのに、肝心の音が全くしない。
よく見れば、硝子の縁を叩くはずの「舌(ぜつ)」の部分が、硬い玉ではなく、ふわふわとした真っ白な「綿(わた)」で作られているのだ。
これでは、いくら揺れても音が鳴るはずがない。
「おいおい、不良品か?」
「音が鳴らなきゃ、ただの飾りだろ」
観衆から口々に不満が漏れる。浪人は勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
「どうだ。仕入れ値をケチって、部品を間違えたか? 綿の舌など聞いたこともない。これでは涼も取れぬぞ」
しかし。
商人は、待ってましたとばかりに扇子をパチリと鳴らした。
「嘆かわしい! ああ、実に嘆かわしい!」
「な、何だと?」
「お客さん、そして其処(そこ)にいる旦那。あなた方は、まだ『耳』で音を聞こうとしているのですか?」
商人は憐れむような目で観衆を見渡した。
「普通の風鈴は、チリンチリンとやかましい。あれは言わば、風が『俺はここにいるぞ!』と叫んでいるようなもの。そんな騒音で、真の涼が得られましょうか? いえ、得られない!」
商人は、音のしない風鈴をうっとりと見上げた。
「この風鈴の名は『静寂の鳴子(なるこ)』。
ご覧なさい。綿の舌が優しく硝子を撫でている……。音がしないからこそ、我々は全神経を集中し、目には見えぬ『風の気配』そのものを肌で感じることができるのです」
商人は浪人に向き直り、声を潜めた。
「旦那、あなたは剣の使い手とお見受けする。達人同士の立ち合いにおいて、本当に怖いのは『剣戟(けんげき)の音』ですか?」
「……なに?」
「違いますね? 剣が触れ合う前の、張り詰めた『静寂』。相手の『殺気』。音もなく忍び寄る一瞬の隙……それこそが真剣勝負でしょう」
浪人の眉がピクリと動いた。痛いところを突かれた顔だ。
「この風鈴は、その感覚を養うための『高次元の武具』なのです!
安っぽい音に頼らず、揺れる短冊と、無音の振動だけで風の動きを読む。これができれば、背後に立つ敵の吐息さえも聞き逃さない『心眼』ならぬ『心耳(しんじ)』が開眼するでしょう!」
商人は一気に畳み掛ける。
「騒がしい俗世を離れ、静寂の中で風を読む。これぞ『禅』の境地!
凡人は音を楽しみ、達人は静寂を聴く!
さあ、この究極の静けさ、金一両でお譲りしましょう。それとも旦那は、まだ子供のようにチリンチリンと鳴るオモチャがお好みかな?」
浪人はしばらくの間、無音で揺れる風鈴を凝視していた。
彼の脳裏には、静寂の中で研ぎ澄まされる自身の姿――そして、「達人」という甘美な響きが駆け巡っていた。
「……『心耳』か。
確かに、最近の俺は五感に頼りすぎていたかもしれん。……ふん、一本取られたな」
カラン、と乾いた音がして、商人の手元に金一両が落ちた。
――数日後。
うだるような暑さの中、浪人の長屋では、締め切った部屋で男が一人、脂汗を流して座禅を組んでいた。
軒先には、音の鳴らない風鈴がゆらゆらと揺れている。
「……聞こえる。……俺には、風の声が聞こえるぞ……」
浪人がカッと目を見開き、研ぎ澄まされた感覚で背後を振り返ったその時。
「ブゥゥゥゥゥゥン……」
一匹の蚊が、悠々と彼の頬に止まり、血を吸い始めた。
「……あ、あれ?」
無音の風鈴は、蚊の羽音までは消してくれなかったようだ。
パチン! という自分の頬を叩く虚しい音が、静寂の長屋に響き渡った。
(終)
