薄汚れた革財布を開くたび、私はある種の「罪悪感」に似た痛痒(つうよう)を覚える。
そこに鎮座するのは、野口英世という旧き友ではない。令和の世に舞い降りた新たな賢人、北里柴三郎である。
彼は、あまりにも立派すぎる。
私が問題視しているのは、彼が成し遂げた医学的功績ではない。ペスト菌を発見し、破傷風の治療法を確立したその偉業に対し、誰が石を投げられようか。私が畏怖しているのは、紙幣という俗世の枠組みに閉じ込められた、彼のその「眼差し」の重さである。
今日、私は昼食代として、この偉人を一枚、レジスターという名の祭壇に捧げようとしていた。たかだか八百円の定食である。だが、指先で摘み上げたその肖像と目が合った瞬間、私の指は微かに震えた。
千円。
日本銀行券において、もっとも流通量の多い、大衆的な単位。
だが、肖像の彼はどうだ。その引き結んだ口元、遠く真理を見据える双眸(そうぼう)、そして豊かな口髭。そこから放たれる威圧感は、明らかに「千円」という額面の器(うつわ)を凌駕している。
一万円札の主(あるじ)、渋沢栄一を思う。
資本主義の父とされる彼は、そのふくよかな顔つきと余裕のある表情で、一万円という最高額紙幣の座に相応しい「富の匂い」を纏っている。彼には、経済という濁流を泳ぎ切った者の、ある種の俗っぽさと風格が同居している。
対して、北里はどうだ。
彼は科学者だ。生命という神の領域にメスを入れた、孤高の求道者だ。その精神性が、なぜ資本の論理において、渋沢栄一の十分の一の価値しか与えられていないのか。
「お会計、一千円になります」
店員の乾いた声が、私の思索を断ち切る。
私は北里柴三郎をトレイに置いた。
その瞬間、私は錯覚する。この紙幣は、ただの決済手段ではない。これは「国家の品格」そのものではないか、と。
この凛とした佇まい。細菌という見えざる敵と戦い抜いた男の肖像が、たかが豚肉とキャベツの炒め物と等価交換されてよいはずがない。
(違う。これは、間違いだ)
私の脳内で、急激なインフレーションが巻き起こる。
渋沢が経済を回すための「油」なら、北里は生命を守るための「盾」だ。命の値段が金の値段より安いというのか。いや、彼の肖像が放つ重厚なオーラは、五千円、いや、一万円札と対等、あるいはそれ以上でなければつじつまが合わない。
私はトレイの上の北里を見つめ、心の中で叫んだ。
「貴方は、過小評価されている」
千円というレッテルは、貴方に対する冒涜だ。貴方のその顔は、もっと高潔で、もっと重たい何かなはずだ。
「お預かりします」
店員が無慈悲に彼を攫(さら)っていく。
レジの中に吸い込まれる直前、北里柴三郎が私を一瞥(いちべつ)した気がした。それは、「お前は私を、こんな端金(はしたがね)として使うのか」という静かな断罪の眼差しだった。
私は釣り銭の硬貨を受け取った。二百円。
ジャラリ、と虚しい音が掌で鳴る。
財布に戻された銀色の円盤は、北里という巨人が去った後の抜け殻のように、冷たく、そして軽かった。
私は店を出て、空を見上げた。
曇天の空は、医学の父が抱いたであろう憂国の情の色をしていた。
やはり、あの紙幣には千円以上の価値があったに違いないのだ。
私は今日もまた、等価交換の幻想に惑わされている。
(終)
著:沖田史郎