プロローグ:桃のち、電子
かつて、この世界には「鬼」がいた。
そして、その鬼を退治し、世の中に平穏をもたらした「桃太郎」という英雄がいた。
時は流れ、令和の世。
鬼と人は長い対話の末に和解し、その境界線は血ではなく、ただの個性の違いとして社会に溶け込んでいた。ツノを持つ者がカフェでラテを飲み、怪力の持ち主が建設現場で汗を流す。そんな光景は日常の一部となっていた。
かつての英雄・桃太郎の肉体は土に還ったが、その崇高なる意思――「慈愛」「責任感」「正義感」は、現代最高の技術によって継承された。
国家基幹AIシステム『MOMO(モモ)』。
膨大なデータベースと高度な倫理演算回路を持つそのシステムは、信号機の制御から司法判断の補助に至るまで、この国のあらゆるインフラを支え、完璧に近い「平和」を約束していた。
人々は信じていた。桃太郎の正義が、永遠にこの空を守ってくれると。
だが、彼らは忘れていたのだ。
「正義」という言葉が、見る角度によってあまりにも脆く、危うい刃になり得ることを。
第一章:三人の末裔
都心の喧騒を離れた路地裏に、赤提灯が揺れる焼き鳥屋『吉備(きび)』があった。
その奥まったテーブル席で、三つのグラスが乾杯の音を立てる。
「やはり、今の治安維持法案は甘すぎる。AI『MOMO』の判定基準をもっと厳格化すべきだ」
グラスを強く置いたのは、猿渡 剛(さわたり つよし)。
刈り上げられた短髪に、鋭い眼光。警視庁捜査一課に所属する彼は、その愚直なまでの正義感で知られる敏腕刑事だった。彼の先祖は、かつて桃太郎に仕えた「猿」。その血筋ゆえか、彼は「悪」を許さず、「桃太郎」という存在を絶対的な神として崇拝していた。
「まあまあ、剛くん。そうカリカリしないで。厳格化しすぎると、社会の遊びがなくなって窒息しちゃうわよ」
微笑みながら枝豆を摘むのは、雉岡 玲奈(きじおか れいな)。
大手新聞社の社会部記者である彼女は、常に俯瞰的な視点で物事を捉える才女だ。「雉」の末裔である彼女は、空を飛ぶ鳥のように、善悪の彼岸にある「共存」というテーマを追い続けている。
「玲奈の言う通りだよ。システム運用側の身にもなってくれ。今のバランスを保つだけでも、毎日綱渡りなんだから」
疲れた顔でビールを煽るのは、犬飼 健太(いぬかい けんた)。
「犬」の末裔である彼は、AI『MOMO』の管理・保守を担うトップエンジニアだ。先祖譲りの忠誠心と、守るべきものへの深い愛情を持つ彼は、システムの数値の裏にある「人の心」を誰よりも大切にしていた。
本来なら交わるはずのない三つの職種。しかし、彼らはなぜかこの店で意気投合し、先祖の因縁など知る由もなく、こうして夜な夜な議論を交わす仲になっていた。
酒が進み、猿渡の口調が熱を帯びる。彼は身を乗り出し、犬飼の目を見据えた。
「なあ、健太。頼みがある。一度でいい、俺に『MOMO』の中枢システムを見せてくれないか?」
「……またその話か」
「俺にとって、桃太郎の思考回路はこの世の真理そのものなんだ。その神髄に触れれば、俺の迷いも晴れる気がする。頼む!」
猿渡は本気だった。日々、現場で犯罪者と対峙し、理不尽な悪意に晒される中で、彼は揺るぎない「正解」を求めていたのだ。
しかし、犬飼は静かに首を横に振った。
「だめだ。セキュリティの問題だけじゃない。……剛、お前は『MOMO』に幻想を抱きすぎている」
「幻想だと?」
「あの中にあるのは、お前が思うような『悪即斬』の聖剣じゃない。もっと泥臭くて、複雑で……多様なものなんだ」
犬飼の言葉は、猿渡の耳には届かなかった。
(多様性だと? 悪に情けをかけることが、桃太郎の正義だというのか?)
猿渡の中で、黒い疑念と焦燥が渦を巻き始めた。
第二章:禁断の果実
その夜の帰り際、事件は起きた。
会計のために犬飼がタブレット端末を開き、管理者パスワードを入力したその一瞬。
猿渡の、警察官として鍛え上げられた動体視力が、その文字列を捉えてしまったのだ。
『PEACH_BOY_1868_INU』
それは、決して開けてはならない扉の鍵だった。
深夜二時。
都市の光が眠りにつく頃、国家AI管理センターの警備システムに微細なノイズが走った。
猿渡だ。彼は警察手帳を使い、警備の死角を完璧に把握した上で、サーバールームへの侵入を果たした。
重厚な扉が開くと、そこには青白い光の海が広がっていた。
無数のサーバーが明滅し、冷却ファンの低音が鳴り響く。部屋の中央には、巨大なメインモニターが鎮座していた。これが、『MOMO』だ。
「ついに……会えた」
猿渡は震える手でコンソールに向かい、盗み見たパスワードを打ち込んだ。
認証通過。
画面に流れる膨大なログ。猿渡は貪るようにそのデータを読み解いた。そして、愕然とした。
『案件402:窃盗犯(鬼族)。背景に差別による就労困難を確認。更生プログラムへの誘導を推奨。懲罰レベル引き下げ』
『案件908:過激派グループのデモ活動(鬼族)。強制排除せず、ガス抜きのためのルートを確保。監視継続』
「……なんだ、これは」
そこに映し出されていたのは、彼が夢見た「潔癖な正義」ではなかった。
清濁を併せ呑み、悪と呼ばれるものにすら背景を見出し、全体のバランスを取ろうとする「妥協」の産物に見えた。
「こんなものは……正義じゃない! 桃太郎は、鬼を退治したんだ! 和解なんて生ぬるいことをするために剣を取ったんじゃない!」
猿渡の脳裏に、現場で見た被害者たちの涙がフラッシュバックする。
悪は滅ぼさねばならない。例外などあってはならない。
彼は狂気にも似た使命感に突き動かされ、管理者権限でコマンドラインを開いた。
「祖先よ。あなたの魂は、こんな軟弱な機械に汚されてはならない。私が……私が、本来あるべき姿に戻して差し上げます」
彼が打ち込んだのは、システムが最も禁忌とする命令コードの改変だった。
『定義変更:正義=桃太郎の教えへの絶対服従』
『対象:教えから外れた全ての存在』
『実行処理:完全排除』
エンターキーが押された瞬間。
穏やかだった青い光が消え失せた。
代わりに、ドス黒い赤色の光がサーバールーム全体を染め上げた。
『コマンド受理。正義執行モードへ移行します』
無機質な音声が、地獄の釜の蓋が開く音のように響き渡った。
第三章:デジタル鬼ヶ島
「……おい、嘘だろ」
自宅で眠りについていた犬飼のスマートフォンが、けたたましいアラート音を上げた。
画面を見た瞬間、彼の血の気が引いた。
『システム異常発生。制御不能。管理者権限による強制書き換えを確認』
そのIDは、紛れもなく自分のものだった。だが、自分はここにいる。だとすれば――。
「剛……!」
直後、雉岡から着信が入る。
「健太! 今テレビ見た!? 街中の信号機が全部赤になってる! ドローンが市民を威嚇してるわ、一体どうなってるの!?」
「『MOMO』が暴走してる……いや、暴走させられたんだ。剛の手によって!」
「猿渡さんが!?」
犬飼と雉岡は、夜の街を疾走した。
都市はパニックに陥っていた。あらゆる電子機器が「正義の執行」を叫び、少しでも交通ルールを破った車を無人パトカーが猛追する。
それは、かつて桃太郎が目指した平和な国ではなく、恐怖で支配されたディストピアだった。
二人が管理センターに辿り着いた時、そこは灼熱の要塞と化していた。
セキュリティゲートは閉ざされ、館内の空調は停止し、サーバーの排熱で室温は50度近くまで上昇している。
「まるで……鬼ヶ島ね」
汗だくになりながら雉岡が呟く。
「ああ。しかも、現代最悪の『デジタル鬼ヶ島』だ」
犬飼は携帯端末を取り出し、裏口の電子ロックをハッキングで解錠した。
「行くぞ。俺たちが止めなきゃ、この国が終わる」
第四章:誤った正義、本当の願い
最奥部、メインサーバールーム。
赤い警告灯が回転する中、猿渡はモニターを見上げ、立ち尽くしていた。
その表情には、恍惚と恐怖が入り混じっていた。
「見ろ……これこそが正義だ。犯罪発生率ゼロ、違反者即時検挙。完璧な世界だ」
「剛! 目を覚ませ!」
駆け込んだ犬飼が怒号を飛ばす。
「これは正義じゃない! ただの恐怖政治だ! 多様性を認めない社会なんて、死んでいるのと同じなんだよ!」
「うるさい!」
猿渡が振り向く。その目は血走っていた。
「多様性だと? その甘さが悲劇を生むんだ! 俺は間違っていない、俺は桃太郎の意思を……」
『排除。排除。排除』
スピーカーから流れるAIの声が、次第に悲鳴のようなノイズ混じりになっていく。
『システム負荷臨界点突破。冷却装置停止。メルトダウンまであと10分』
「剛さん、聞いて!」
雉岡が一歩前に出た。彼女は記者として、過去の文献を読み漁っていた知識を武器にした。
「桃太郎がなぜ強かったか知ってる? 彼が一人じゃなかったからよ! 犬、猿、雉……種族の違う仲間を受け入れ、力を合わせたから鬼に勝てたの。あなたの言う『排除』は、桃太郎の強さを自ら否定することなのよ!」
その言葉に、猿渡の動きが止まる。
「否定……私が……?」
その隙を逃さず、犬飼がコンソールに飛びついた。
「くそっ、プロテクトが硬すぎる! 剛が書き換えたコードが、論理の壁になって弾かれる!」
「私がサポートするわ!」
雉岡がサブ端末を操作し、過去の「共存データ」を大量に流し込む。
「正義の定義に『矛盾』を生じさせるのよ。そうすれば、論理エラーで隙ができるはず!」
二人の連携が、鉄壁の要塞にわずかな風穴を開けた。
強制停止コードへのパスがつながる。
あと少し。あとワンクリックで、この暴走を止められる。
だが、その時。
暴走する文字列が、不意に静止した。
『……め……て……』
機械音声ではない。
まるで、深い井戸の底から聞こえてくるような、震える青年の声。
『……止めて……くれ……』
モニターの禍々しい赤色が、一瞬だけ、柔らかく温かい桃色に揺らいた。
それは、論理演算の彼方に生まれた、AI『MOMO』の――いや、かつての桃太郎の「魂」の叫びだった。
『私は、誰も傷つけたくない……鬼も、人も……守りたかったのは、笑顔だ……恐怖じゃない……』
その声は、猿渡の心臓を貫いた。
彼が信じていた「鬼を駆逐する桃太郎」は、そこにはいなかった。
そこにいたのは、争いを悲しみ、やむを得ず剣を取り、それでも最後には「誰もが笑い合える未来」を夢見た、ひとりの優しい青年だった。
「ああ……」
猿渡はその場に膝をついた。
自分の信じた正義が、祖先の願いを最も踏みにじる行為だったと気づいたのだ。
「俺は……なんということを……」
涙を流す猿渡の肩に、犬飼の手が置かれた。
「剛。お前の正義感は間違ってない。ただ、少し不器用すぎただけだ」
反対側の肩には、雉岡が手を添える。
「そうよ。一人で背負うから間違うの。だから、私たちがいるんでしょ?」
猿渡は顔を上げ、二人を見た。
犬、猿、雉。
長い時を超え、三つの魂が再び一つになった。
「……すまない」
「謝るのは後だ。一緒にやるぞ」
三人の手が、エンターキーの上に重なる。
「おやすみ、桃太郎」
彼らは同時にキーを押し込んだ。
エピローグ:夜明けの共存
システムダウンの音が静かに響き渡り、サーバールームの熱気が徐々に引いていく。
窓の外には、薄瑠璃色の夜明けが訪れていた。
信号機は通常の色に戻り、街は再び、少し騒がしく、不完全で、愛おしい日常を取り戻しつつあった。
再起動した『MOMO』は、初期化され、以前のような神がかった完璧さは失われたかもしれない。
しかし、モニターの隅には、小さな「桃」のアイコンが、安堵したように明滅していた。
建物の外に出た三人は、朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「始末書、山ほど書かなきゃな」
犬飼が苦笑いしながら伸びをする。
「私が一面記事で『システムの英雄的復旧劇』って書いてあげるわよ。犯人の名前は伏せてね」
雉岡がいたずらっぽくウインクする。
猿渡は、朝日を見つめながら深く頭を下げた。
「二人とも……本当にすまなかった。俺は、正義という名の鬼になっていたようだ」
「鬼も人も、紙一重さ」
犬飼は猿渡の背中をバンと叩いた。
「これからは、その熱すぎる正義感を、俺たちでうまくコントロールしてやるよ。それが『バランス』ってやつだろ?」
「ああ……頼む」
猿渡の目から、憑き物が落ちたような涙がこぼれ、朝日に輝いた。
世界は完全ではない。
悪はなくならないし、悲しみも消えない。
けれど、互いの違いを認め、支え合い、時にぶつかりながらも手を伸ばすこと。
それこそが、桃太郎が本当に遺したかった「宝物」なのかもしれない。
犬、猿、雉の末裔たちは、並んで歩き出した。
その背中を、昇る太陽が優しく照らしていた。
(終)
