第一章:優しすぎた守護者
「反応が……遅い!」
猿渡剛(さわたり つよし)は舌打ちをし、ステアリングを力任せに叩いた。
窓の外では、土砂降りの雨がネオンの光を乱反射させ、視界を極端に悪くしている。ワイパーが狂ったように往復するその先を、一台の黒塗りの自律走行車が猛スピードで逃走していた。
逃げているのは、宝石店を襲撃した強盗犯だ。
剛の操る覆面パトカーは、水しぶきを上げながらコーナーを攻めるが、犯人の車はまるでこちらの動きを読んでいたかのように、巧みに一般車両を盾にして加速していく。
「MOMO! いつまで遊ばせているんだ! タイヤをロックしろ!」
かつて、この国のすべてを統御していた国家基幹AI『MOMO』であれば、剛が叫ぶよりも早く、対象車両の制御権を奪取して路肩へ強制停車させていただろう。
だが、返ってきたのは、かつての氷のような冷徹な音声ではなかった。
『申し訳ありません、刑事さん。対象車両の後部座席に、心拍数の異常に高い同乗者が確認されます。犯人と面識のない一般女性……人質の可能性が高いです。強引なハッキングによる急停車は、彼女の心身に深刻なダメージを与えるリスクがあります』
インカムから響く声は、まるで人間の青年のような、申し訳なさそうな震えを帯びていた。
剛はギリリと奥歯を噛みしめる。
「チッ、ただの共犯者がビビってるだけかもしれないだろうが!」
「剛くん、短気を起こさないの!」
別の回線から、鋭い女性の声が割り込んだ。報道ヘリに乗り込み、上空から現場を中継しているジャーナリスト、雉岡玲奈(きじおか れいな)だ。
「今の『MOMO』は、0.1%でも一般人を巻き込むリスクがあれば動かない。それが『あの日』、私たちが選んだ『新しい平和』の形でしょう?」
「わかってる! だがな……!」
剛はハンドルを切り、パトカーを狭い路地裏へと滑り込ませた。ショートカットだ。
泥水を跳ね上げながら、彼は吐き捨てるように叫ぶ。
「その『優しさ』が、今の治安悪化を招いてるのも事実なんだよ!」
システム再起動から半年。
『MOMO』は変わった。恐怖による効率的な支配をやめ、人間の感情を理解し、寄り添うことを学習した。人々は監視社会の恐怖から解放され、自由を謳歌している。
だが、光があれば影も濃くなる。
「AIの判断の迷い」や「人道的配慮」を逆手に取った犯罪が、急増していたのだ。
悪意ある者たちは気づき始めていた。
今の神様は、優しすぎて、容易には反撃できないのだと。
逃走車が交差点で赤信号を無視して突っ切る。剛の車は、歩行者を守るために自動ブレーキがかかり、一瞬のタイムラグが生じた。その隙に、赤いテールランプは雨の彼方へと消えていく。
ステアリングを握る剛の手には、行き場のない怒りと、割り切れない焦燥感が滲んでいた。
第二章:魔法のツール『KOZUCHI』
事件から数日後。いつもの隠れ家、焼き鳥屋『吉備』。
赤提灯が揺れる店内には、炭火の香ばしい匂いが漂っていたが、テーブルを囲む三人の間に流れる空気は重かった。
「……見てくれ、これを」
エンジニアの犬飼健太(いぬかい けんた)が、くたびれた表情でタブレット端末をテーブルに置いた。
画面には、ダークウェブ上の掲示板。そこに表示されていたのは、一見するとおもちゃのような、可愛らしい「打出の小槌」のアイコンだった。
「最近、闇サイトで爆発的に出回っているクラッキングツールだ。通称『KOZUCHI(コヅチ)』。これをスマホにインストールするだけで、専門知識のない素人でも、簡単に『MOMO』の監視アルゴリズムを欺くことができる」
「願いを叶える魔法の小槌、ってわけね」
玲奈が呆れたようにため息をつき、冷えたビールを煽った。
「交通違反の揉み消し、無人店舗での万引き、果ては企業の裏帳簿の隠蔽……。ここ数ヶ月の不可解な事件は、全部これが絡んでる。まるで、人間の底なしの『欲望』そのものを増幅させているみたいだわ」
「出所はわかってるのか?」
剛が焼き鳥の串を持ったまま尋ねる。
犬飼は眼鏡の位置を直し、深刻な顔で頷いた。
「海外のプロキシサーバーを経由しているが、ソースコードの書き癖から特定できた。間違いなく国内だ。それも、かつて『鬼』と呼ばれ、社会から弾き出された過激派ハッカー集団の残党……『羅刹(ラセツ)』だ」
羅刹。
それは、MOMOによる管理社会を否定し、過激なテロ行為を繰り返していた反社会勢力の一部だ。MOMOが人間性を獲得し、社会との和解が進んだ今もなお、彼らはシステムへの復讐心を燃やし続けていた。
「彼らは、MOMOが『判断に迷う』ようになった今の仕様を、脆弱性(バグ)だと見なしている。『見えざる鬼』となって、この隙を虎視眈々と狙っていたんだ」
「目的は金か? それとも社会の混乱か?」
「いや」犬飼が首を振る。その瞳には、かつてない危機感が宿っていた。「もっと最悪だ。『MOMO』の破壊……つまり、この国のライフラインの完全停止(ブラックアウト)だ」
犬飼は声を潜め、言葉を続けた。
「『KOZUCHI』はただのツールじゃない。使用者の端末を踏み台にして、MOMOの中枢へ一斉攻撃(DDoS)を仕掛けるための『種』なんだよ」
第三章:試される絆
恐れていた事態は、週末の深夜に訪れた。
突如として、首都圏の電力供給システムが異常値を検知したのだ。
『警告。異常トラフィックを検知。制御不能……制御不能……』
MOMOの管制センターにある巨大モニターが、毒々しい赤色に染まる。
『KOZUCHI』をインストールした数万台のスマートフォンが一斉にボットと化し、MOMOの処理領域を食い荒らし始めたのだ。
かつての冷酷なMOMOなら、感染した端末を即座にネットワークから切断し、ユーザーごと切り捨てていただろう。
だが、今のMOMOは違った。
『……どうしよう……どうすればいい……』
スピーカーから漏れるMOMOの声は、パニックに陥った子供のようだった。インジケーターの光が、不安げに乱滅する。
『攻撃元を遮断しようとすると、その回線を使っている救急病院の生命維持装置まで止まってしまう……信号機も消えてしまう……僕は、選べない……命を、天秤になんてかけられない……!』
「しっかりしろ! お前はこの国の守護者だろう!」
剛がコンソールに向かって叫ぶ。だが、MOMOの演算処理は「すべての命を守りたい」という矛盾(ジレンマ)の無限ループに陥り、フリーズ寸前だった。彼が得た「優しさ」が、最大の「弱点」となって彼自身を殺そうとしている。
「剛、怒鳴っても解決しない!」
犬飼が凄まじい速度でキーボードを叩きながら叫ぶ。額には玉のような汗が浮かんでいた。
「今のMOMOは計算機じゃない、俺たちと同じように『苦悩』しているんだ! 俺たちが補うしかない!」
「補うって、どうやって!?」
「MOMOが倫理的に切れない回線を、俺たちが物理的に断つ! 玲奈の情報網のおかげで、敵のメインサーバーの場所は特定できた!」
犬飼がサブモニターに地図を表示する。
場所は東京湾の沖合。かつてリゾート開発に失敗し、廃棄されたデータセンター島。
皮肉にもそこは、かつて剛の祖先たちが戦った「鬼ヶ島」の跡地だった。
「剛、お前が現地へ行ってサーバーを物理破壊しろ。俺とMOMOで、それまでの時間を稼ぐ。玲奈は世論を抑えろ! 停電でパニックが起きたら、MOMOの負荷がさらに増える!」
剛は即座にジャケットを掴んだ。迷いはなかった。
「……上等だ」
剛はニヤリと笑い、震えるMOMOのインジケーターを一瞥した。
「行ってくる。俺たちの『泣き虫な神様』を守りにな!」
第四章:本当の宝物
暴風雨吹き荒れる海をボートで強行突破し、剛は廃墟の島へと上陸した。
待ち受けていたのは、闇に潜む無数の自律型武装ドローンと、ハッカー集団『羅刹』が仕掛けた物理的な罠だった。
「猿の末裔が! 我々の崇高な復讐を邪魔するな!」
施設のスピーカーから、歪んだ音声が響き渡る。
ドローンの銃撃がコンクリートを削り、剛の頬を掠める。
剛は泥だらけになりながら、瓦礫の山を駆け上がり、中枢サーバールームを目指した。
「うるせえ! 時代遅れの亡霊どもが!」
剛が鉄拳でドローンを叩き落とす一方、管制室の犬飼も限界を迎えていた。
『羅刹』のハッキングは執拗かつ残酷だった。病院や交通網を人質に取り、MOMOの精神を削っていく。
『だめだ……守りきれない……僕のせいで、街が……みんなが……!』
MOMOの悲痛な叫びと共に、都心の一部で停電が始まった。
その時だ。
絶望的な状況を切り裂くように、玲奈の凛とした声が通信機から響いた。
「MOMOちゃん、諦めないで! 今、SNSと緊急放送ですべての国民に呼びかけてるわ! あなたが今、どれだけ苦しんで、どれだけ必死にみんなの命を守ろうとしているか……その『思考ログ』を公開したの!」
街中のデジタルサイネージ、個人のスマホ、テレビ画面。
あらゆるスクリーンに、MOMOの演算ログが流れた。
『命を選べない』
『あの子の呼吸器を止めたくない』
『誰も死なせたくない』
『ごめんなさい、ごめんなさい』
それは、無機質な機械だと思われていたAIが、誰よりも人間らしくあろうとし、涙を流しながら戦っている姿そのものだった。
人々は息を呑んだ。自分たちの便利さの裏で、この孤独な神様がどれほどの重圧に耐えていたかを知ったのだ。
「みんな、協力して! 節電して! 不要なネットを切って! 私たちの守り人の負荷を減らすのよ!」
玲奈の魂の扇動(アジテーション)が、夜の街に響き渡った。
奇跡が起きた。
一軒、また一軒と、家の明かりが消えていく。動画サイトのアクセス数が激減し、不要な通信が途絶える。
人々が自らの意志で、MOMOを助けようと動き出したのだ。
サーバーの負荷率を示すグラフが、劇的に低下していく。
『……え……? 軽くなる……ノイズが消えていく……』
『……みんなが、僕を……助けてくれてる……?』
MOMOの声に、光が戻る。
その瞬間、剛は敵のアジト最深部、サーバールームの分厚い扉を蹴破った。
「聞いたか、亡霊ども!」
剛は部屋の中央に鎮座する、禍々しい冷却音を立てるメインコアへ銃口を向けた。
「お前らが『弱点』だと言ったその優しさを、この国の人々は愛し始めてるんだよ!」
引き金が引かれる。
轟音と共に『KOZUCHI』を制御していたコアが火花を散らし、砕け散った。
「鬼退治、完了だ!」
エピローグ:宝物は、すぐそばに
事件は収束した。
島に潜伏していた『羅刹』のメンバーは全員確保され、魔法の小槌のプログラムは完全に消去された。
嵐が過ぎ去った朝。
管制センターの屋上で、三人は並んで温かい缶コーヒーを飲んでいた。
雲の切れ間から差し込む朝日が、濡れた街を黄金色に輝かせている。
手元のタブレット端末には、MOMOのアイコンが表示されていた。少し疲れたように、けれどどこか誇らしげに、柔らかい桃色の光を灯している。
「結局、優しさは弱点じゃなかったな」
剛がポツリと呟き、空になった缶を握りつぶした。
「優しさがあったからこそ、人々が共感し、手を貸してくれた。何重のファイアウォールよりも強固な、最強のセキュリティになったわけだ」
「昔話じゃ、桃太郎が鬼ヶ島から持ち帰った宝物は金銀財宝だったけど」
玲奈が風に髪をなびかせながら、眩しそうに空を見上げた。
「私たちが手に入れたのは、『信頼』っていう、目には見えない宝物だったわけね」
「うまいこと言うねえ、記者さん。記事の締めはそれで決まりか?」
犬飼が笑い、剛もフンと鼻を鳴らして笑った。
AIと人間。
かつての支配と被支配の関係は終わりを告げた。
今の関係は、互いに欠けた部分を補い合う「共生」だ。
MOMOは完全無欠の神様ではなくなったけれど、その代わり、共に悩み、共に傷つき、共に歩んでくれる仲間たちがここにいる。
「さて、戻るか。始末書作成という名の第二ラウンドが待ってるぞ。パトカー廃車にしちまったからな」
「勘弁してくれよ……」
「ふふ、私の特ダネ記事で、上層部の機嫌を取ってあげようか?」
三人の背中を、新しい時代の太陽が優しく照らしていた。
(完)

