短編小説『刑事・猿渡剛の暴走』〜恋の緊急配備(スクランブル)と花屋の天使〜

第一章:戦場はパステルカラー

5月の陽光がアスファルトを焼く、土曜日の午後14時。

平和な商店街の一角に、異質な空気を纏う男がいた。

電柱の陰に身を潜め、通り過ぎる親子連れを鋭い眼光で牽制するその男――警視庁捜査一課・猿渡剛(さわたり つよし)は、額に脂汗を滲ませていた。

身長185センチ、体重95キロ。鋼のような筋肉を安物のグレースーツに押し込め、右手には携帯食料である「バナナ味プロテインバー」を握りしめている。

「……現時刻(ヒトヨンマルマル)。ターゲットに動きなし。依然として、要塞内部にて接客中」

彼の視線の先にあるのは、凶悪犯のアジトではない。

色とりどりのパンジーやマーガレットが咲き乱れる、街の愛らしい花屋『フローラ』だ。

そして彼が「ターゲット」と呼ぶ人物は、ピンクのエプロンが似合う、天使のように微笑む店員・百合(ゆり)さんだった。

剛は、人生最大の危機に瀕していた。

明日は母の誕生日。実直な彼は「カーネーションを贈る」というミッションを自らに課した。だが、彼には致命的な欠陥があった。

『花屋に入る』という行為が、彼の武骨なDNAにおいて『敵地への単独潜入』と同等のストレスレベルとして処理されてしまうのだ。

「不審者ね」

「完全に事案だぞ、剛」

背後から冷ややかな声が突き刺さる。

剛がビクリとして振り返ると、そこには腕を組んだ雉岡玲奈と、スーパーの袋を提げた犬飼健太が立っていた。

「き、貴様ら……! なぜここに!?」

「なんでって、あんたの殺気が凄すぎて、向かいのカフェのテラス席まで届いてきたからよ」

玲奈が呆れ顔で剛のプロテインバーを指差す。

「一時間よ。あんたがそこで、花屋の自動ドアと睨めっこを始めてから一時間が経過してるわ」

「バカな……! 俺はただ、店内のセキュリティホールと、離脱ルートのシミュレーションを……」

「花を買うだけだろ」

健太が容赦なく切り捨てる。「さっさと行けよ。お母さんが泣くぞ」

剛は苦悶の表情で頭を抱えた。

「無理だ! 俺のような血と火薬の匂いが染み付いた男が、あんなファンシーな空間に足を踏み入れてみろ! 『美女と野獣』どころか『天使とゴジラ』だ! 店の生態系が崩れる!」

「自意識過剰もそこまでいくと立派な病気ね……」

玲奈はため息をつき、不敵な笑みを浮かべて懐から小型インカムを取り出した。

「いい? 剛くん。これは強制執行よ」

第二章:作戦名「フラワー・バイ・ミー」

「聴こえるか、剛。感度は良好だ」

「……了解」

剛の左耳には、健太が即席で調整した超小型通信機が装着されていた。

商店街のベンチに陣取った玲奈と健太が、遠隔で剛を操作(ナビゲート)する。名付けて『オペレーション・フラワー・バイ・ミー』。

「いい? 剛くん。ターゲット(百合さん)は今、フリーよ。この隙にエントリーしなさい」

玲奈の指令が飛ぶ。

剛は覚悟を決めた。プロテインバーを一息で飲み込み、スーツの襟を正す。

「突入する!」

ウィーン。

自動ドアが開く音が、剛の耳には重厚なシェルターの開閉音のように聞こえた。

一歩踏み入れた瞬間、強烈な色彩と芳香が剛の五感を襲撃する。

甘い香り。柔らかい光。BGMは優雅なクラシック。

(クソッ、なんてプレッシャーだ……! ここは幻術使いの結界か!?)

「い、いらっしゃいませ……?」

カウンターの奥から、百合さんが顔を出した。

怯えている。無理もない。剛の顔面は緊張のあまり、今にも発砲しそうなほど強張っていた。

『剛くん、笑顔! 口角を3ミリ上げて!』

インカムから玲奈の怒鳴り声。

剛は顔面筋肉を総動員して「笑顔」を作ろうとした。結果、生まれたのは「般若の威嚇」に近い表情だった。

「……ひっ!」

百合さんが後ずさりする。

『バカ! 怖がらせてどうするの! 注文よ、注文!』

「あ、ああ……!」

剛は焦った。

普段、取調室で容疑者を詰める時の語彙しか出てこない。

「カーネーションを……」と言おうとして、喉が張り付く。何か、もっと男らしい、頼もしいオーダーをしなければ。

「け、警視庁の猿渡だ!!」

「は、はいぃ!?」

「あ、いや、その! ……この店で一番『強い花』を出せ!!」

店内が、真空になったかのように静まり返った。

『ブフォッ!!』

インカムの向こうで健太が盛大に吹き出す音が聞こえる。

百合さんは目を白黒させている。

「つ、強い花……ですか? 暑さに強いとか、そういう……?」

「違う! どんな悪党にも屈しないような……屈強な花だ!」

「(……サボテンとか?)」

第三章:凶悪犯(?)を制圧せよ

その時だった。

剛の鍛え上げられた動体視力が、店内の死角に潜む「影」を捉えた。

場所は、店奥の高級蘭コーナー。

身長120センチほどの小柄な人影が、手になにか金属的な輝きを持つ「凶器」を握りしめ、商品に忍び寄っている。

(ハサミだ……! あの鋭利な刃物で、商品を傷つける気か!?)

剛の脳内で、緊急アラートが鳴り響いた。

恋愛モードから、戦闘モードへの切り替えは0.1秒。

彼は「花屋の客」ではなく、「現場の刑事」へと戻った。

「確保ぉぉぉぉッ!!」

剛は床を蹴った。

コンクリートをも砕く脚力が、花屋の床板を軋ませる。

「きゃあああ!?」

百合さんの悲鳴を背に、剛は陳列棚をパルクールのように飛び越えた。舞い散るバラの花びらが、スローモーションのように視界を流れる。

「貴様! その花に指一本触れさせるわけにはいかん!」

剛は空中で身を捻り、その「不審者」の前に着地すると同時に、手首を極めて「凶器」を弾き飛ばした。

カラン、とハサミが床に落ちる。

「動くな! 器物損壊未遂および公務執行妨……」

剛の怒号は、そこで凍りついた。

彼が取り押さえた相手は、涙目で震える小学生の男の子だった。

「う、うわぁぁぁん! 僕のハサミぃぃ! お父さんのお手伝いしてただけなのにぃぃ!」

「……え?」

剛が状況を理解するよりも早く、物理法則が彼に襲いかかった。

着地の衝撃に耐えきれず、背後の巨大なラックがバランスを崩したのだ。

ズドォォォォン!!

大量の園芸用土(20リットル入り×10袋)と、高級肥料の袋が雪崩のように崩落し、剛の頭上へと降り注いだ。

店内は瞬く間に、茶色い土煙と肥料の独特な匂いに包まれた。

「……あ」

土まみれになり、頭から腐葉土を被った剛。

その目の前には、大泣きする店長の息子と、腰を抜かした百合さん。

そして、自動ドアの向こうで顔を覆う玲奈と健太の姿があった。

第四章:男の勲章は泥だらけ

「本当に! 申し訳! ありませんでしたァッ!!」

午後17時。

剛の怒号のような謝罪が、店の裏手に響き渡った。

誤解は解けた。少年は店長(百合さんの父)の息子で、枯れた葉を切ろうとしていただけだった。

剛は、その頑強な肉体を「お詫び」のためにフル活用することになった。

散乱した土の撤去、崩れた棚の補修、重い鉢植えの移動、ついでに詰まりかけていた排水溝の掃除まで。

泥と汗にまみれ、ジャケットを脱ぎ捨ててワイシャツ一枚で働く剛の姿は、もはや刑事というより熟練の土木作業員だった。

「ふぅ……」

すべての作業を終えた頃には、空は茜色に染まっていた。

店の前の掃き掃除をする剛の背中に、誰かが近づく気配がした。

「あの、刑事さん」

剛がビクッとして振り返ると、そこには缶コーヒーを2本持った百合さんが立っていた。

「お疲れ様でした。これ、どうぞ」

「い、いえ! 俺のような破壊神が、施しを受けるわけには……!」

直立不動で恐縮する剛に、百合さんはクスリと笑った。

「ふふっ。最初はびっくりしましたけど……悪い人じゃないんですね」

「え?」

「あの子を守ろうとしてくれたんでしょう? ……やり方はちょっと、凄すぎましたけど」

彼女は剛の泥だらけのシャツを見て、優しく目を細めた。

「不器用ですけど、真っ直ぐな方なんですね。お花も、きっと喜びます」

天使の微笑みだった。

剛の心臓が、警鐘ではなく、歓喜のドラムを打ち鳴らす。

顔が熱い。夕日のせいではない。

「き、恐悦至極(きょうえつしごく)にございます!!」

「これ、お詫びじゃなくて、お礼です。一番『強い花』ですよ」

彼女が手渡したのは、小さな素焼きの鉢植えだった。

そこに鎮座していたのは、ゴツゴツとした、丸いサボテン。

「花言葉は『燃える心』。……刑事さんにぴったりだと思って」

エピローグ:相棒の名は

帰り道。商店街のアーケードを抜ける風は心地よかった。

「いやー、傑作だったわ! 『確保ぉぉ!』って飛んだ瞬間、映画かと思ったわよ」

玲奈がケラケラと笑いながら歩く。

「俺は始末書の手伝いをさせられる未来が見えて胃が痛い……」

健太はげっそりと肩を落としている。

その真ん中を、剛は泥だらけの姿のまま、両手で大事そうにサボテンを抱えて歩いていた。

その表情は、難事件を解決し、市民の平和を守り抜いた男の顔だった。

「剛、そのサボテン、なんて名前にするんだ?」

健太の問いに、剛は真剣な眼差しで鉢植えを見つめ、低い声で答えた。

「『トゲ次郎』だ」

「……センス皆無かよ」

「いいじゃない。剛くんらしくて」

剛は、手のひらの中の小さな「相棒」に語りかける。

この棘だらけの姿は、不器用な自分そのものだ。だが、この内側には水分と生命力が満ちている。

そして何より、あの天使(百合さん)が選んでくれたのだ。

「行くぞ、トゲ次郎。俺たちの管轄(シマ)を守りにな」

「あんたの管轄は捜査一課だろ。花屋に通う気満々だな」

三人の影が長く伸びる。

猿渡剛の恋は、前途多難かつ波乱万丈の予感を孕んでいたが、少なくとも今日のところは、土と肥料の匂いと共に「確保」完了となったようである。

なお、翌日の母親の誕生日。

サボテンをプレゼントされた母は一瞬絶句したが、事の顛末を聞いて大爆笑し、今では実家の玄関の一等地に『トゲ次郎』が鎮座しているという。

(- 愛しみの桃太郎 スピンオフNo.002 – 完)