短編小説『クリーニング店のタグに書いてあったこと3(完)』~時を超えて届いたエール~

春からの新生活に向けて、自室の荷物を整理していた時のことだ。

いるもの、いらないもの。過去、未来。

部屋中に散乱する段ボール箱の隙間で、私はタイムマシーンの操縦席に座っているような気分だった。

自分のクローゼットがおおよそ片付いたので、ついでに両親の寝室にある、今は使われていない古いタンスの中身も整理することになった。

「もう着ない服は、思い切って処分してくれ」と父は言っていたけれど、いざ開けてみると、そこには父の歴史が詰まっていた。

防虫剤のツンとする匂いと、古い繊維の匂い。

流行遅れのネクタイや、少し黄ばんだワイシャツの下から、一着の古いスーツが出てきた。

色はチャコールグレー。生地は擦り切れ、肩のあたりはすっかり形が崩れている。今の父が着たら、きっと窮屈だろう。

ああ、これは父さんが若い頃、毎日戦っていた鎧なのだな、と思った。

処分用の袋に入れようと持ち上げたとき、ふと、昔からの癖が出た。

洗濯物を出す前には、必ずポケットを確認すること。母に口酸っぱく言われてきた習慣だ。

ジャケットの内ポケットに手を入れる。

指先に、カサリ、と乾いた感触が触れた。

「あれ」

つまみ出したのは、すっかり茶色に変色した、古いクリーニング店のタグだった。

プラスチックではなく、厚紙でできた小さい紙きれ。

もう店名も電話番号も薄れて読めないけれど、下の方に、手書きの文字が残っていた。

インクが滲み、薄くなっているが、丸みを帯びた優しい筆跡が読み取れた。

――ポケット、確認しました。

その文字を見た瞬間、私の頭の中で、カチリと音がした。

記憶の奥底にしまわれていた「家族の昔話」が、鮮やかに蘇ったのだ。

「あの時、お父さんは本当に疲れていてね」

父が少し照れ臭そうに、でも懐かしそうに話してくれたことがあった。

仕事が忙しく、余裕がなかった時期。クリーニングから戻ってきたスーツのポケットに、私の小さな靴下が、それはそれは丁寧に包まれて入っていたこと。

「まだ二歳だったお前の、ピンク色の小さな靴下だよ。まるで宝石みたいに扱ってくれていてね。それを見たら、なんだか力が湧いてきたんだ」

あれは、このスーツだったのか。

私はその古びたタグを、壊れ物を扱うようにそっと掌に乗せた。

当時の私は幼すぎて、その出来事を覚えていない。

でも、想像することはできる。

忙しい朝、父の足元にまとわりつく小さな私。

疲れ果ててクリーニング店に向かう父の背中。

そして、その背中から預かったスーツのポケットに、小さな迷子を見つけた店員さんの姿を。

あの時、顔も知らない店員さんが、業務の枠を少しだけ超えて施してくれた手間。

その小さな優しさが、父の心を温め、巡り巡って、今の私まで育ててくれたのだ。

「ポケット、確認しました」

ただの事務連絡のはずのその言葉が、今は違って見えた。

それは、過去から届いた、名もなき誰かからのエールのようだった。

「大丈夫。世界はあなたが思っているより、ちゃんと見ていてくれるし、優しくしてくれるよ」

そう言われている気がした。

これから社会に出ていく私は、きっと父と同じように疲れ果てたり、余裕をなくしたりする日があるだろう。

でも、そんな時、この小さなタグのことを思い出せたら、少しだけ顔を上げられるかもしれない。

私はそのタグを、処分するスーツの山から救い出した。

そして、春から使う新しい手帳の、一番前のポケットにそっと忍ばせた。

窓から入る風が、少しだけ春の匂いを運んできた気がした。

(終)