あなたが結末を選択する小説『おじさん魔術師』後編ルートA ~消える魔球~

※これは前編で「ルートA」を選んだ読者のための物語です。
※まだ前編をお読みでない方はこちら↓を先にご覧ください。


「……これで全力かよ」

術後1年。リハビリを終えた坂田は、ブルペンで愕然としていた。

右肘の内側には、メスを入れた痕がくっきりと残っている。痛みはない。可動域も戻った。

だが、スピードガンが示した数字は『128km/h』。

全盛期より15キロも遅い。かつて唸りを上げていた直球は、ただの棒球に成り下がっていた。

「お疲れ様です。……まあ、復帰直後ですし」

受けてくれた後輩捕手が、気まずそうにボールを返してくる。その同情が、坂田の胸をえぐった。

やはり、33歳でのトミージョン手術は賭けだったのだ。俺の野球人生は、ここで終わるのか。

絶望感で力が抜けた。

もう、フォームなんてどうでもいい。ヤケクソ気味に、坂田はボールを鷲掴みにした。

縫い目に指をかけず、ただ爪先だけでボールを支える。

脱力しきった腕を振る。指先がボールを弾く、その瞬間——。

坂田の異常発達した「指先のセンサー」が、ボールの回転を完全に殺すポイントを捉えた。

ヒュッ。

放たれたボールは、捕手に向かってふらふらと飛んでいき——ミットの手前で、ふっと視界から消えたように落ちた。

「……え?」

捕手が捕球できず、ボールがバックネットに転がる。

「坂田さん、今、何すか? ボールが……揺れて、消えましたよ?」

坂田は自分の指先を見つめた。

手術によって肘の靭帯が再建されたことで、腕の振りが以前よりもしなやかになっていた。そこに、天性の「指先の感覚」と、絶望による「脱力」が組み合わさり、究極の変化球——ナックルボールが生まれたのだ。

「回転を、かけない……」

坂田はニヤリと笑った。

剛速球という武器は失った。だが、その代わりに得たのは、誰も打てない「魔球」だった。


それから半年後。都市対抗野球大会、決勝戦。

9回裏、ツーアウト満塁。一打サヨナラのピンチで、マウンドには坂田が立っていた。

相手バッターは、プロ注目の長距離砲だ。

球場中の視線が突き刺さる。かつての坂田なら、プレッシャーで力んでいただろう。

だが今の彼は、マウンドで奇妙なほどリラックスしていた。

彼はロージンバッグを触り、指先をこすり合わせる。

(大丈夫、感覚は研ぎ澄まされている)

第一球。

腕を振る速度は速いのに、ボールは蝶のように舞いながら近づき、バットが空を切る。

会場がどよめく。「なんだ今の球は?」「止まって見えたぞ」

第二球。

今度は不規則に揺れながら、インコースへ。バッターは腰が引けて見送る。ストライク。

追い込んだ。

坂田は帽子を目深に被り直した。

(タネも仕掛けもない、本物を見せてやるよ)

第三球。

坂田の指先から放たれた白球は、無回転のまま空気抵抗を受け、物理法則を無視した軌道を描く。

バッターは渾身の力でバットを振るが、ボールはその遥か下をすり抜け、ミットに吸い込まれた。

「ストライク、バッターアウト! 試合終了!」

歓喜の輪がマウンドにできる。

呆然とする相手バッターが、ベンチ裏のインタビューで答える声が聞こえてきた。

『あれはピッチャーじゃない……魔術師ですよ。ボールがどこに来るか、投げた本人も分かってないんじゃないか?』

翌日のスポーツ新聞。

一面を飾ったのは、マウンドで不敵に笑う坂田の写真と、大きな見出しだった。

『遅咲きの復活! 摩訶不思議な【おじさん魔術師】がチームを救う』

記事を読んだ坂田は、珈琲を飲みながら小さく笑った。

かつてロッカールームで見せた、下手くそなコインの手品を思い出す。

今の俺は、あの時言った通りだ。

「タネも仕掛けもない。ただ、指先ひとつで相手の心を動かすだけさ」

社会人野球界に現れたその「魔術師」は、40歳を超えるまでマウンドに立ち続け、多くのファンと子供たちを魅了し続けることになる。

【完】


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