あなたが結末を選択する小説『おじさん魔術師』後編ルートB ~幸せの香り~

※これは前編で「ルートB」を選んだ読者のための物語です。
※まだ前編をお読みでない方はこちら↓を先にご覧ください。


「……退職願、ですか」

上司のデスクに封筒を置き、坂田は深く頭を下げた。

34歳。トミージョン手術は受けず、野球部を引退してから2年が経っていた。

営業職として社業に専念し、当時の彼女とは結婚もした。傍から見れば順風満帆な「第二の人生」だ。

だが、坂田の心には常に乾いた風が吹いていた。

パソコンのキーボードを叩く指先が、時折、無意識に「縫い目」を探して宙を彷徨うのだ。

(俺の指先は、もう誰も熱くさせることはない)

そう思っていたある日曜日、転機は訪れた。

妻が趣味で焼こうとしていたパン生地が、どうしても膨らまないという。

「ちょっと貸してみな」

気まぐれに手を出した坂田の手が、ボウルの中の生地に触れた瞬間、電流のような感覚が走った。

(……わかる)

湿度70%、室温24度。この環境下で、イースト菌がどう呼吸したがっているか。水分が足りないのか、こね方が足りないのか。

かつてボールの革の質感をミクロ単位で感じ取っていた「指先のセンサー」が、パン生地のコンディションを完全に解析していたのだ。

「水はあと5cc。こねる時は、こう……掌じゃなくて、指先で包み込むように」

焼き上がったパンは、驚くほどふっくらとして、食べた妻が涙ぐむほど美味しかった。

「健ちゃん、これ……魔法みたい」

その言葉が、凍っていた坂田の時間を溶かした。

俺の指先は、まだ死んじゃいない。


それから3年後。

駅前の商店街に、小さなパン屋がオープンした。

店の名前は『ベーカリー・エース』。

「いらっしゃい! 焼きたてのメロンパン、入ったよ!」

粉まみれのエプロン姿で、坂田は活き活きと働いていた。

彼の焼くパンは、不思議なほど優しい味がすると評判だった。疲れたサラリーマンが食べればホッとし、喧嘩したカップルが食べれば仲直りしてしまう。

そんな噂が広まり、店は連日大盛況だ。

ある日の夕方、店先で男の子がソフトクリームを落として大泣きしていた。

坂田はふと、レジ横の百円玉を手に取り、カウンターを出た。

「坊主、よく見てな」

昔、ロッカールームで後輩たちに笑われた、あのコインの手品だ。

だが、今の坂田は違った。

毎日毎日、柔らかい生地を繊細なタッチで扱い続けたことで、彼の指先は以前よりも遥かになめらかに、しなやかに動くようになっていたのだ。

ヒュッ。

坂田が手を振ると、コインは本当に消え失せ——次の瞬間、泣いている男の子の耳の裏から現れた。

さらに、手を開くと、そこには焼きたての小さなアンパンが乗っていた。

「えっ、えっ!?」

男の子が涙を忘れて目を丸くする。

「すっげえ! おじちゃん、魔法使いなの?」

その様子を見ていた近所の常連客たちが、クスクスと笑いながら囁き合う。

「ほら、またやってる」

「あそこの店主、食べた人をみんな笑顔にしちゃうのよね」

「本当、商店街の**【おじさん魔術師】**だわ」

坂田は男の子にアンパンを渡し、頭を撫でた。

かつて彼は、「タネも仕掛けもない『本物』しか扱えない」と強がっていた。

でも今は違う。

「おじちゃん、これどうなってるの?」

「ん? これはな……」

坂田は粉のついた指先をこすり合わせ、悪戯っぽくウィンクした。

かつてのマウンドとは違う、温かい夕暮れの中で。

「タネも仕掛けもあるよ。『愛情』っていう、とびきりのタネがね」

商店街の「おじさん魔術師」は、今日も魔法の指先で、街に幸せの香りを届けている。

【完】


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