第ー章 英雄の苦悩と黒い噂
桃太郎が村に戻ってから数ヶ月が経ちました。村は平和そのもので、持ち帰った宝物のおかげで皆が豊かに暮らしていました。しかし、桃太郎の心は晴れませんでした。
「鬼の子」である自分が、鬼を倒した英雄として称賛される日々。その矛盾が、小さな棘となって胸に刺さっていたのです。
ある嵐の夜、桃太郎は眠れずに村の外れを歩いていました。すると、村の長(おさ)の屋敷の裏手にある蔵から、話し声が漏れ聞こえてきました。
「いやあ、上手くいったものだ。まさか本当に桃太郎が鬼たちを懲らしめてくれるとはな」
「まったくだ。隣の国から奪った宝や、村の畑を荒らしたのを、全部『鬼のせい』にした噂を流したのは正解だったよ」
桃太郎は息を呑んで立ち止まりました。それは、村の実力者たちと、見知らぬあくどい顔をした商人たちの声でした。
「それにしても、鬼どもが持っていたあの財宝は見事なものだったな」
「ああ、奴らが島の鉱山で汗水垂らして掘り出し、加工した純金だ。あれを奪えたのは大きいぞ」
雷に打たれたような衝撃が桃太郎を貫きました。
鬼たちは、何もしていなかった。
畑を荒らし、宝を奪っていたのは、この村の「悪い人間」たちだったのです。
鬼たちは、ただ島で真面目に働き、家族と静かに暮らしていただけだったのです。
「なんと……なんということだ……!」
桃太郎の全身の血が沸騰するような怒りに襲われました。
自分が振るった正義の刀は、罪なき者の平穏を切り裂くための、悪党の道具でしかなかったのです。
第二章 人の皮を被った鬼
桃太郎は拳を握りしめ、蔵に飛び込もうとしました。しかし、寸前で足が止まりました。
今ここで彼らを成敗すれば、どうなるでしょうか。
村は大混乱に陥り、何より、自分を愛してくれたおじいさんとおばあさんが悲しむことになります。
(人間とは、なんだ。鬼とは、なんだ)
ツノが生えている者が鬼なのか。それとも、罪をなすりつけ、他者の尊厳を踏みにじる心を持つ者が鬼なのか。
桃太郎は数日間、部屋に閉じこもり、悩み続けました。
おじいさんが心配そうに声をかけます。
「桃太郎や、どうしたんじゃ。顔色が悪いぞ」
「……おじいさん。もし、人間が間違っていて、鬼が正しかったとしたら、どうしますか」
おじいさんは少し驚いた顔をしましたが、すぐに慈愛に満ちた目で答えました。
「人がどうあれ、わしにとってお前は自慢の息子じゃ。お前の信じる道を行きなさい」
その言葉で、桃太郎の迷いは晴れました。
彼は決心しました。
人間の世界で作られた「偽りの正義」に加担し続けることはできない。
けれど、育ててくれた恩を仇で返すような復讐もしたくない。
ならば、選ぶ道は一つでした。
その夜、桃太郎は置手紙を残しました。
『僕は、本当の自分を探す旅に出ます。今まで育ててくれて、本当にありがとうございました』
宝物はすべて村に置いていきました。彼が持ったのは、おばあさんが持たせてくれた腰のキビ団子の袋と、あの「ツノの首飾り」だけでした。
村を出ようとした時、背後から気配がしました。
犬、猿、キジでした。
「桃太郎さん、どこへ行くんですか」
「……僕はもう、英雄じゃない。鬼の仲間になりに行くんだ。君たちはここにいなさい」
しかし、三匹は顔を見合わせ、一歩前に出ました。
「おいらは、強い桃太郎さんについてきたんじゃない。優しい桃太郎さんが好きだからついてきたんだ」
「鬼だろうが人間だろうが、関係ないさ」
桃太郎の目から、熱いものがこぼれ落ちました。
第三章 帰郷
小舟は再び海を渡りました。
以前のような、戦意に満ちた航海ではありません。罪の意識と、謝罪の念、そして微かな希望を乗せた旅でした。
鬼ヶ島の浜辺が見えてきました。
見張りの鬼たちが騒ぎ出し、武器を構えるのが見えます。当然です。かつて自分たちを襲った宿敵が戻ってきたのですから。
桃太郎は舟を降りると、刀を砂浜に投げ捨てました。
そして、両膝を地面につき、頭を垂れました。
「頼む! 親父殿、お袋殿、会わせてくれ!」
ざわめきが割れ、屋敷の奥からあのごつごつとした老夫婦が現れました。
息子を見る彼らの目には、驚きと戸惑いが浮かんでいました。
「どうしたというのだ。人間の英雄として、幸せになったのではなかったのか」
父親である老鬼が問いました。
桃太郎は顔を上げず、涙ながらに叫びました。
「僕は知りました。あなたたちが無実であったことを。僕が人間の嘘に踊らされ、あなたたちを傷つけたことを!」
「……」
「僕はもう、人間の世界には戻れません。愚かな僕を、どうか、どうか許してください……そして、もう一度、あなたたちの息子として、この島で暮らさせてはもらえないでしょうか」
桃太郎は懐から、あの首飾りを取り出しました。
そして震える手で、自分の首にかけました。
それは、人間界での栄光を捨て、迫害される鬼として生きるという、不退転の誓いでした。
終章 真の家族
波の音だけが響く静寂が続きました。
やがて、砂を踏む音が近づいてきました。
桃太郎が顔を上げると、そこには涙を流す母鬼の姿がありました。
彼女は何も言わず、大きな体で桃太郎を力いっぱい抱きしめました。
「バカな子だねぇ……。わざわざ苦労する道を選ぶなんて」
続いて、父鬼が桃太郎の肩に手を置きました。
「お前は、姿形こそ人間に似ているが、その心は……誰よりも誇り高い、我らの一族だ」
周りを取り囲んでいた鬼たちからも、次々と歓声が上がりました。
「おかえり!」
「よく帰ってきたなぁ!」
かつて敵として戦った犬、猿、キジも、今では鬼たちと酒を酌み交わし、笑い合っています。
桃太郎は立ち上がり、涙を拭って笑いました。
その笑顔は、かつてないほど晴れやかでした。
その後、鬼ヶ島は豊かな自然と、鬼たちの勤勉さによってさらに発展しました。
噂によると、時折、海を越えて人間の村のおじいさんとおばあさんの元へ、新鮮な魚や珍しい果物がこっそりと届けられているそうです。
「ツノのない鬼」と、その仲間たちが暮らす島は、本当の豊かさと平和を知る者たちの、秘密の楽園となったのでした。
(おわり)