連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第4話 ~地下迷宮の黒い霧(ブラック・スモッグ)~

「……クソ、効きが悪くなってやがる」

俺は洗面所の鏡に向かって、鎮痛剤を二錠、水なしで噛み砕いた。

ガリリという苦い音が脳に響く。

最近、愛用しているノイズキャンセリングヘッドホンの性能が落ちた気がする。

いや、違う。

機械が劣化しているんじゃない。

外の世界の「音」が、異常なほど肥大化しているのだ。

以前は、行き交う人々の頭上に浮かぶノイズは「個人の叫び声」の集合体だった。

『眠い』『死にたい』『腹減った』。

それらは高音だったり低音だったり、バラバラの周波数で飛び交っていた。

だが、ここ数日、それらが溶け合って一つの巨大な「地鳴り」に変わっている。

ブゥゥゥゥゥン…………

巨大な送風機が地下で唸っているような、重く、粘り気のある重低音。

それが二十四時間、俺の鼓膜を震わせ続け、頭蓋骨の裏側を削り取ってくる。

俺は充血した目を冷水で洗い、無理やり意識を覚醒させて、薄暗いセンターのデスクに戻った。

***


「おい、須藤。ちょっと見てくれ」

昼過ぎ、顔色の悪い先輩駅員の田中が、大きな荷物を引きずって入ってきた。

「コインロッカーの期限切れだ。警察立ち会いで開けたんだが……中身は空っぽだった。空だったんだが……」

田中は口元を押さえ、吐き気を堪えるような仕草をした。

「なんだか妙なんだ。開けた瞬間、立ち会った警官が急に目眩でしゃがみ込んじまって。俺も、なんだか頭が割れるように痛くて」

田中が持ち込んだのは、大型のハードキャリーケースだった。

色はマットブラック。表面は傷だらけで、空港のバーコードシールが何枚も重ねて貼られている。

俺はそれを見た瞬間、反射的に椅子ごと後ろへ下がった。

「……おい、田中さん。それ以上近づくな」

「え?」

「いいから置いて出て行け。早く!」

俺の剣幕に押され、田中は逃げるように部屋を出て行った。

一人になったセンターで、俺は改めてその「空っぽのケース」と対峙した。

空っぽ?

冗談じゃない。パンパンに詰まってやがる。

ケースのわずかな隙間から、コールタールのような「黒い霧」がモクモクと湧き出し、天井を舐めるように広がっているのだ。

音は、もはや音声になっていない。

……ツカレタ……シニタイ……カエリタイ……コロシタイ……

何千、何万という人間の怨嗟の声が、ミキサーにかけられてドロドロのペースト状になったような、おぞましい不協和音。

特定の「誰か」の感情じゃない。

形も、輪郭もない。ただひたすらに重く、冷たい質量。

俺は防護マスク(気休めでしかないが)を装着し、トングを構えて近づいた。

「……なんだこりゃ。個人のもんじゃねえ」

トングで霧に触れても、いつものような鮮明なビジョンが見えない。

見えるのは、満員電車の息が詰まる圧迫感。

終電後の汚れたホームに散らばるゴミ。

ネットカフェの狭い個室の閉塞感。

路地裏の吐瀉物の臭い。

『品名:感情(堆積型)』
『成分:新宿駅を利用する数百万人のストレス、鬱屈、および諦念』

これは「忘れ物」ではない。

新宿という巨大な街がフィルターとなり、毎日ここを通過する人々から少しずつ削り取られた「心のカス」だ。

それが、持ち主不明のまま放置されたこのケースを依代(よりしろ)にして、長い時間をかけて凝縮され、発酵したのだ。

「……ッ、うおォ!?」

俺が分析している間にも、黒い霧は膨張を続けた。

ケースの留め具が内側からの圧力で弾け飛び、蓋がガバッと開いた。

ドパァァッ!!

決壊したダムのように、黒い汚泥が噴き出した。

物理的な液体ではない。だが、精神的な圧力が物理的な衝撃となって俺を襲う。

部屋の照明が明滅し、バチバチとショートする。

視界が真っ黒に染まる。

「ぐ、ああぁぁ……! うるせえ、黙れ!!」

俺は床に膝をついた。

ヘッドホンなど意味がない。脳に直接、何万人分の「疲労」と「絶望」が流し込まれる。

体が鉛のように重い。指一本動かすのが億劫になる。

このまま横になって、泥の中に沈んでしまいたい。

二度と起きたくない。

(……ふざけんな)

俺は奥歯が砕けるほど噛み締めた。

ここで沈んだら、俺はこのゴミ溜めの一部になる。

それだけは御免だ。

「俺は……清掃員じゃ、ねえんだよ……!」

俺は最後の力を振り絞り、這いつくばって倉庫の奥へ向かった。

そこには、特に危険な劇物を一時的に隔離するための「特別保管庫(開かずの金庫)」がある。

俺は金庫の重いハンドルを回し、扉を開けた。

そして、噴き出し続けるキャリーケースを蹴り飛ばし、金庫の中へ押し込んだ。

溢れ出た霧も、掃除機のように吸い込まれていくわけではない。

俺自身の体を使って、霧を金庫の中へ押し戻す。

全身に汚泥を浴びるような悪寒。

「入れ、この野郎ッ!!」

俺は全体重をかけて、金庫の扉を閉めた。

ドンッ!

重厚な金属音が響き、ロックが掛かる。

ハンドルを回し、密閉。

途端に、あの耳をつんざくような轟音が、分厚い壁の向こうへと遠ざかった。

「はぁ、はぁ、はぁ……ッ」

俺は大の字になって床に倒れ込んだ。

鼻からツーと温かいものが流れる。

手で拭うと、真っ赤な血だった。

鼻血が出るほどの負荷。

いつもの「個人の案件」とは桁が違う。

「……なんなんだよ、今の。バケモノかよ」

天井を見上げても、チカチカと点滅する蛍光灯があるだけだ。

俺は金庫の方を見た。

分厚い鋼鉄の扉の隙間から、まだ微かに黒い煙が漏れているように見える。

これは「解決」ではない。

単に「満杯のゴミ箱」を、別の頑丈な箱に移し替えただけだ。

そして、俺の直感が告げている。

新宿の地下には、これと同じような「澱(おり)」が、まだ無数に溜まっているのではないか、と。

***


ピロリン。

静寂に戻った部屋で、業務端末の通知音が鳴った。

俺は這うようにしてデスクに戻り、画面を覗き込んだ。

本部からの一斉送信メールだ。

『件名:【注意喚起】季節の変わり目に伴う精神的不調について』
『各センターへ。季節の変わり目に伴い、利用客の精神状態が不安定になる傾向があります。トラブルに警戒してください』

定型文だ。何の役にも立たない。

俺は画面を閉じようとして、ふと手を止めた。

そのメールの下に、転送された形跡がある。

吉祥寺センターの相沢からの、個別の追伸(・・)のような一文が添えられていた。

『追伸:処理しきれないものは、抱え込まないようにしてください』

俺は画面を睨みつけた。

「……外野が、偉そうに言ってんじゃねえ」

なんで分かるんだよ。

まるで、俺が今、泥だらけになって這いつくばっているのを見透かしたようなタイミングだ。

俺は震える手で、追加の薬を口に放り込んだ。

暗い倉庫の中で、金庫の奥から響く低い唸り声だけが、俺の鼓膜に残っていた。

(第5話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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