『ギギギ……ガガガ……』
異音の正体は、目の前の鋼鉄の塊だった。
倉庫の奥に鎮座する特別保管庫。
俺が昨日、何重にもガムテープで目張りしたその扉が、まるで生き物のように呼吸し、軋んでいる。
内側からの圧力が、限界を超えようとしているのだ。
「……嘘だろ。鉄扉だぞ……?」
俺はデスクにしがみつきながら、その光景を呆然と見つめた。
分厚い鉄のプレートが、飴細工のように外側へと湾曲していく。
新宿中のストレスを圧縮した「黒い霧」の質量は、もはや物理法則を無視し始めていた。
バツンッ!
貼り重ねたガムテープが弾け飛ぶ音がした。
それが、終わりの合図だった。
ボォォォォンッ!!
爆発音と共に、金庫の通気口や扉の隙間から、圧縮された黒い霧が一気に噴出した。
それは煙ではない。
意志を持った「汚泥の津波」だ。
黒い波は瞬く間にセンター内を満たし、デスクを飲み込み、蛍光灯を割り、そして天井の配管――空調ダクトへと吸い込まれていく。
「マズい……!」
俺は顔色を変えた。
このダクトは、駅構内の空調システムと繋がっている。
この猛毒が、地上へ撒き散らされる。
「待てッ! そっちに行くな!!」
俺は叫んだが、黒い霧は俺を嘲笑うように、換気扇の轟音と共に闇の奥へと消えていった。
***
『ウー、ウー、ウー!』
センターを出た瞬間、耳をつんざくような警報音が鳴り響いていた。
業務端末と、構内放送が同時に喚き散らしている。
『緊急連絡! 緊急連絡! 東口改札前にて、複数のお客様が体調不良を訴え卒倒!』
『お客様同士の喧嘩、トラブルが多発中! 警備員、および手の空いている係員は至急現場へ!』
俺はフラつく足に鞭を打ち、倉庫から持ち出した「大型モップ」を握りしめて走った。
清掃用具? 笑いたければ笑え。
俺にとって、感情なんてものは「汚れ」だ。
拭き取って、消毒して、ゴミ箱へ捨てるだけの汚物だ。
だから、これは武器になる。そう思い込まなければ、足がすくんで動けなかった。
「クソッ、俺が……俺が片付けねえと……」
俺は血の味のする唾を吐き捨て、階段を駆け上がった。
***
そこは、地獄だった。
新宿駅東口コンコース。
普段なら、無関心な人々が足早に行き交うだけの無機質な空間。
だが今は、天井一面をドス黒い雨雲のような霧が覆い、そこからボタボタと粘着質の「悪意」が降り注いでいた。
「おい、ぶつかっただろ! 謝れよ!」
「うるさい! 死ね! みんな死んじまえ!」
「あああぁぁぁ……怖い、怖いよぉ……」
サラリーマンが鞄を振り回して殴り合っている。
若い女がその場で泣き叫び、髪をかきむしっている。
うずくまって嘔吐する者、奇声を上げて走り出す者。
普段は理性という蓋で抑え込まれていたストレスが、黒い霧によって強制的にこじ開けられ、増幅されていた。
「……ひぃ、ひぃ……」
改札の柱の影に、先輩の田中が座り込んで震えていた。
「なんだこれ……みんな急に……空気が、重い……息ができない……」
普通の人間にも、この異常な「空気の重さ」は物理的な圧迫感となって襲いかかっているようだ。
田中の顔色は土気色で、今にも気絶しそうだった。
俺は田中の横を通り過ぎ、阿鼻叫喚の中心へと躍り出た。
俺の姿を認めた黒い霧が、待っていたとばかりに鎌首をもたげる。
『オ前モ……混ザレ……』
『楽ニナレ……』
「うるせええええええッ!!」
俺はモップを振り回した。
布の束が、霧のど真ん中を切り裂く。
「散れッ! 消えろ! ここはゴミ捨て場じゃねえんだよ!!」
俺は狂ったようにモップを振るった。
一瞬、霧が晴れる。
だが、すぐに周囲から新しい霧が湧き出し、再生する。
数が違いすぎる。質量が違いすぎる。
俺一人の「清掃」では、この都市の排泄物を処理しきれない。
ミシッ。
嫌な音がした。
俺の頭部を締め付けていた、ノイズキャンセリングヘッドホン。
黒い霧の圧力と、周囲の絶叫の振動に耐えきれず、プラスチックのフレームに亀裂が入ったのだ。
「あ……」
パキィィィン!!
ヘッドホンが砕け散り、床に落ちた。
その瞬間。
最後の防壁を失った俺の脳髄に、数千人分の「殺意」「絶望」「悲嘆」「嫉妬」が、フィルタリングなしで直接叩き込まれた。
「――が、ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
痛い、なんて言葉じゃ足りない。
脳味噌をミキサーにかけられ、熱した鉛を耳から注ぎ込まれるような激痛。
視界が真っ赤に染まる。
目から、鼻から、耳から、血が噴き出す。
***
俺は膝から崩れ落ちた。
モップが手から滑り落ち、カラカラと乾いた音を立てる。
もう、指一本動かせない。
視界の端で、黒い霧が巨大な「人の顔」のような形になり、ニヤリと笑った気がした。
(……終わった)
抵抗する気力すら、根こそぎ刈り取られた。
俺も、このゴミの一部になるのか。
佐藤のように、エリのように、レイジのように。
この巨大なノイズの渦に飲み込まれて、個を失うのか。
(静かにしてくれ……眠らせてくれ……)
薄れゆく意識の中で、俺は冷たい床の感触だけを感じていた。
周囲の喧騒が、遠く、水底の音のように遠ざかっていく。
そして、俺の世界は完全な闇に包まれた。
***
同時刻。
吉祥寺駅、遺失物取扱センター。
夕方のラッシュアワーを迎え、少し忙しくなってきた時間帯。
カウンターの中で事務作業をしていた男――相沢が、ふと手を止めた。
彼は顔を上げ、窓のない壁の向こう、遠く東の方角をじっと見つめた。
彼の並外れて鋭敏な感覚器官が、遠く離れた場所で起きた「決壊」の振動を捉えていた。
空気が震えている。
風に乗って、微かに鉄錆と腐敗臭が混ざったような、不吉な匂いが届いている。
「……ああ、やはり耐えきれませんでしたか」
相沢は、残念そうに小さく呟いた。
彼はゆっくりと立ち上がり、自分のロッカーを開けた。
中から、真っ白な布手袋を一双、取り出す。
そして、業務日報の備考欄に、万年筆で一言だけサラサラと書き記した。
『外出:新宿駅へ応援』
相沢は制帽を目深に被り直すと、静かにセンターを出て行った。
その表情は、これから嵐の中へ向かうとは思えないほど、静謐(せいひつ)だった。
(第7話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

