連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第7話 ~白手袋と静寂の指揮(コンダクター)~

俺は、泥の海に沈んでいた。

視界も、聴覚も、ドロリとした黒い粘液に塞がれている。

『痛い』『辛い』『憎い』『許さない』

無数の手が、俺の足首を、手首を、首筋を掴んでいる。

それらは俺を深淵へと引きずり込みながら、俺という個人の輪郭を溶かそうとしていた。

(……ああ、うるせえ。もう、どうでもいい……)

抵抗する気力は残っていない。

このまま混ざってしまえば、楽になれるのかもしれない。

俺の思考が途切れ、自我が闇に溶けようとした、その時だった。

チーン……。

泥の海を切り裂くように、澄んだ「鈴の音」のような響きが聞こえた。

それは、涼やかな風鈴の音のようでもあり、教会で祈りを捧げる時の鐘の音のようでもあった。

その音が波紋となって広がった瞬間、俺に絡みついていた無数の手が、恐れをなしたようにパッと離れた。

俺は深い水底から、一気に浮上した。

***


「……はっ!」

俺はガバッと目を開けた。

そこは、まだ地獄の続き――新宿駅東口コンコースのはずだった。

だが、何かがおかしかった。

暴徒化していたはずのサラリーマンたちが、狐につままれたような顔で立ち尽くしている。

泣き叫んでいた女が、涙を拭ってキョロキョロと辺りを見回している。

そして、先輩の田中が、腰を抜かしたままポカンと口を開けて、ある一点を見つめていた。

雑踏の向こうから、制服の帽子を目深に被った男が一人、歩いてくる。

彼は大声を出すわけでも、武器を持っているわけでもない。

ただ、彼が歩く一歩ごとに、周囲の喧騒が「スッ」と音量を下げていく。

まるで、彼を中心にして、世界が静寂に包まれていくようだった。

男は、汚れた床に倒れている俺の元へ歩み寄り、膝をついた。

その手には、眩しいほど真っ白な布手袋が嵌められている。

「……お疲れ様です。よく耐えましたね」

穏やかで、しかし芯のある声。

電話越しに聞いたことのある、あの声だ。

「てめぇ……吉祥寺の……」

俺が呻くと、相沢は微笑みながら、手袋をした右手を俺の額にかざした。

「少し、静かにしましょうか」

彼の手が触れた瞬間。

俺の脳内で爆音を上げていたノイズが、まるでステレオのボリュームつまみをゆっくりと絞るように、急速にフェードアウトしていった。

遮断(ノイズキャンセリング)ではない。

荒れ狂う周波数が、穏やかな波長へと「調律(チューニング)」されていく感覚。

割れそうな頭痛が引き、呼吸が楽になる。

「……な、なんだこれ……」

俺が呆然としていると、周囲を取り巻いていた「黒い霧」が、異物(相沢)の存在に気づいたようだった。

ウウウゥゥゥ……!!

霧が再び活性化し、巨大な津波となって頭上から覆いかぶさろうとする。

「おい避けろ! 飲まれるぞ!」

俺は叫んだ。

だが、相沢は逃げなかった。

彼はゆっくりと立ち上がり、迫りくる黒い絶望の波に向かって、そっと右手を差し出した。

「迷子ですね」

相沢は、まるで駅のホームで困っている乗客を案内するように、優しく語りかけた。

「出口はこちらですよ。……もう、怒らなくていい」

彼は空中で、指揮者がタクトを振るように、指先を滑らせた。

その瞬間。

相沢の指先から、目に見えない透明な波紋が広がった。

それは圧倒的な「共感」と「受容」の波動だった。

行き場を失って暴れていた感情たちを、「ああ、分かってるよ」と丸ごと受け止め、抱きしめるような光。

…………

黒い霧から、毒気が抜けていく。

ドス黒いタールのような色が、急速に透明な水蒸気へと変わっていく。

怨嗟の唸り声が、安堵のため息へと変わり、空調ダクトの風に乗って霧散していく。

「馬鹿な……」

俺は震える体でそれを見上げていた。

消したんじゃない。

あいつ、この巨大な感情の塊(バケモノ)と会話して、納得させて成仏させやがったのか……?

力の質が違う。格が違う。

俺が「ゴミ処理係」だとしたら、こいつは「魂の案内人」だ。

数分後。

コンコースを覆っていた霧は、嘘のように消滅していた。

我に返った乗客たちは、「あれ、私なんでこんなところで怒鳴ってたんだろ?」と首を傾げながら、何事もなかったかのように改札を通りすぎていく。

相沢は、一滴の汗もかいていなかった。

真っ白な手袋には、一点のシミもついていない。

「さて。……壊れた金庫の方も、閉めに行きましょうか」

相沢は、倒れている俺に手を差し伸べた。

「立てますか? 新宿の担当者さん」

***


遺失物取扱センターの中は、荒れ放題だった。

デスクはひっくり返り、書類が散乱している。

だが、あの忌まわしい黒い霧は、相沢の手によって完全に浄化され、金庫も再び静寂を取り戻していた。

そこからはもう、あの不快な唸り声は微塵も聞こえてこない。

俺はボロボロの体で椅子に座り、相沢が給湯室で見つけたインスタントコーヒーを淹れているのを眺めていた。

こっちは瀕死だというのに、妙に手際がいい。

「……あんた、何者だ」

俺は掠れた声で訊いた。

「ただの駅員ですよ。あなたと同じ、少し耳が良いだけの」

相沢は紙コップに入ったコーヒーを差し出し、それまでの柔和な笑みを消して、真剣な眼差しで俺を見た。

「須藤さん」

「……あ?」

「あなたは『感情』をゴミだと思っている。だから拾いきれずに、溢れさせてしまうんです」

図星を突かれ、俺は言葉に詰まる。

「落とし物には、必ず持ち主がいます。あるいは、帰るべき場所がある。……それを無視して、無理やりゴミ箱へ捨てようとすれば、いつかあなたが壊れますよ。今回のように」

「…………」

「感情は、聞いてもらうことを望んでいます。遮断するのではなく、耳を傾けて、流してやるのです」

相沢の言葉は、正論すぎて反吐が出る。

だが、悔しいが現に俺は壊れかけ、こいつに救われた。

自分のやり方が通用しなかったことを、認めざるを得なかった。

「……説教かよ。趣味が悪いな」

「アドバイスですよ。同じ苦労をする同業者としての」

相沢はふふっと笑うと、窓のない壁の方――地上にある新宿の街を見通すように視線を向けた。

「しかし、新宿……やはり、賑やかで手のかかる街ですね」

俺は出されたコーヒーを乱暴に啜った。

安っぽいインスタントの味が、傷ついた喉に染みた。

「……苦いな、チクショウ」

俺が毒づくと、相沢は満足そうに頷き、帽子を被り直した。

とりあえず、この場は俺の完敗だ。

だが、借りはいつか必ず返す。

俺は空になった紙コップを握りつぶしながら、そう心に誓った。

(第8話 最終話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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