「おばあちゃんの原宿」こと、巣鴨。
地蔵通り商店街から漂う線香の煙と、名物・塩大福の甘じょっぱい香り。
そして、健康長寿を願って「赤パンツ」を買い求めるお年寄りたちの活気。
山手線の中でも独特の、どこか懐かしく、スローな時間が流れるこの街の駅地下に、そのセンターはある。
『巣鴨駅 遺失物取扱センター』
こじんまりとしたその部屋は、吉祥寺のような静謐さも、新宿のような殺伐さもない。
あるのは、実家の居間のような生活感と、古びた畳の匂いだ。
壁には『家内安全』のお札。カウンターの隅には、近所の商店街からのお裾分けだろうか、みかんのカゴが置かれている。
「はい、どうぞ。熱いお茶です。足元、気をつけてくださいね」
新人の峰岸理沙(みねぎし・りさ)は、カウンターから身を乗り出して湯呑みを差し出した。
本来、窓口で茶を出すなど鉄道会社の業務規定違反だが、ここ巣鴨では日常茶飯事だ。マニュアルよりも人情が優先される。
理沙は今年、大学を卒業して配属されたばかりの二十二歳。
栗色のボブヘアに、少し童顔な顔立ち。新品の制服はまだ糊が効いていて、少しサイズが大きく見える。
「ああ、すまないねぇ。お嬢さん」
パイプ椅子に座っているのは、小柄な老婦人だった。
紫色の手押し車(シルバーカー)の横で、彼女は困り顔で自分のバッグをまさぐっている。
「確かに持ってきたはずなんだけどねぇ……孫にあげる、手作りのハンカチ」
「どんなハンカチですか?」
「新幹線と、パンダの刺繍がついたやつだよ。今度、遠くに引っ越しちゃうから、お守り代わりにね」
理沙は、人懐っこい笑顔で頷いた。
「探してきますね。ちょっと待っていてください」
理沙は奥の棚へと向かった。
保管棚には、杖、帽子、スカーフ、入れ歯(洗浄済み)などが所狭しと並んでいる。
理沙は目を閉じ、一度深呼吸をした。
そして、鼻をクンクンと子犬のように微かに動かした。
(えっと……『心配』の匂い、かな)
理沙には、幼い頃から人の感情が**「視覚」と「嗅覚」**で感じられた。
喜びは柑橘系のフレッシュな香り。怒りは焦げた唐辛子の刺激臭。悲しみは雨上がりの土の匂い。
そして、このおばあちゃんが抱えているような「孫を案じる不安」や「寂しさ」は――。
(あった。……ちょっと、トーストを焼きすぎた時みたいな匂い)
棚の一角にあるアクリルケースから、少しビターで香ばしい、焦げ臭い匂いが漂っていた。
その横には、少し不格好だが、一針一針丁寧に縫われた刺繍入りのハンカチが置かれている。
『品名:感情(混合型)』
『成分:深い愛情、寂しさ、および遠方への懸念』
理沙には見えていた。
ケースの中には、ふんわりとした桜色の霧(愛情)が満ちている。
だが、その中に、黒い煤(すす)のような粒(不安)がパラパラと混じり、美しい桜色を濁らせていた。
理沙はケースを手に取った。
(……このまま返したら、おばあちゃん、また心配で眠れなくなっちゃうかな)
理沙は、自分の能力を「神様がくれた人助けのための力」だと信じていた。
おばあちゃんには、笑顔でいてほしい。
孫を送り出すなら、不安じゃなくて、「いってらっしゃい」という明るい気持ちだけを持たせてあげたい。
それが、私にできる「サービス」だ。
彼女は周囲に誰もいないことを確認すると、そっとケースの蓋を開けた。
そして、素手でその中の空気に触れた。
(美味しくなあれ、美味しくなあれ)
まるで料理の仕上げをするように、心の中で唱える。
理沙の指先が、桜色の霧の中にある「黒い煤」だけを、磁石のように吸い寄せる。
それは理沙だけが使える特殊な技術――「浄化(フィルタリング)」。
スゥッ……。
黒い粒が、理沙の指先から体内へと吸い込まれていく。
同時に、焦げ臭い匂いが消え、日向に干した布団のような、温かく優しい香りだけが残った。
(うん、バッチリ! これで純度100%の愛情だね)
理沙は満足げに微笑んだ。
背中の肩甲骨あたりが、チクリと蚊に刺されたように一瞬痒くなった気がしたが、彼女は「セーターのタグかな?」と気に留めなかった。
***
「ありましたよ、梅さん!」
理沙はハンカチと、透明になったケース(梅さんには見えない)を持ってきた。
「ああ、これだよ! ありがとうねぇ」
老婦人――梅さんはハンカチを受け取ると、それを愛おしそうに撫でた。
そしてふと、理沙の顔を見て、パァッと花が咲くような笑顔になった。
「あら……なんだか、不思議ねぇ」
「え?」
「さっきまでは、孫に会えなくなるのが寂しくて、あの子が向こうでいじめられないか心配で、胸が苦しかったんだけど……」
梅さんは自分の胸に手を当てて、深呼吸をした。
「なんだか今は、『あの子なら大丈夫だ』って、不思議と思えるんだよ。身体がポカポカして、元気が湧いてきたみたい」
その言葉を聞いて、理沙の胸も温かくなる。
「それは良かったです! きっと、梅さんの愛情が一番強いからですよ」
「そうかねぇ。……ありがとう、お嬢さん。あなたは福の神みたいだね」
梅さんはポケットから鼈甲(べっこう)色の飴玉をいくつか取り出し、「お礼だよ」と理沙の手に握らせた。
そして何度も頭を下げ、軽やかな足取りで帰っていった。
その後ろ姿からは、来た時のような「重い背中」の気配は完全に消えていた。
「へへっ、福の神だって」
理沙は飴玉の包み紙を開けながら、嬉しくなってガッツポーズをした。
人を笑顔にできる。不安を取り除いてあげられる。
なんて素敵な仕事なんだろう。
私は、この仕事が大好きだ。
口の中に広がる黒糖の甘さが、理沙の心を満たしていく。
「さて、次はどなたかな?」
理沙は鼻歌交じりに、次の仕事に取り掛かった。
彼女は気づいていない。
制服のブラウスの下。
白く滑らかな背中の皮膚に、針の先で突いたような、極小の**「黒い点」**が一つ、ぽつりと浮かび上がっていることに。
巣鴨の地下で、誰も気づかないほど小さな、しかし確実な「蓄積」が始まっていた。
(第2話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

