その日は、朝からしとしとと冷たい雨が降っていた。
巣鴨の地蔵通り商店街も、今日ばかりは人通りがまばらだ。
地下にある遺失物取扱センターの中にも、湿った空気が重く淀んでいた。
「……うぅ、体が重い」
理沙は誰もいないカウンターで、ぐったりと突っ伏していた。
今朝から、体が鉛のように重い。
背中の痛みも引くどころか、範囲が広がっているような気がする。昨夜貼った湿布も、あまり効果がないようだ。
「気圧のせいかなぁ。雨の日は古傷が痛むって言うし……って、私まだ二十二歳なんだけど」
理沙は無理やり自分にツッコミを入れて、頬をパンパンと叩いた。
「しゃきっとしなきゃ。こんな天気の中来てくれるお客さんもいるんだから」
カランコロン。
まるで理沙の気合に呼応するように、ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
理沙は努めて明るい声を張り上げた。
入ってきたのは、六十代半ばくらいの男性――田所(たどころ)だった。
仕立ての良いスーツを着ているが、ネクタイはしていない。
その背中は、雨に打たれた野良犬のように小さく丸まっていた。
「あの……万年筆を、届けていないでしょうか」
田所の声は、消え入りそうに細かった。
「黒くて、太い軸のものです。勤続四十年の記念に、会社から頂いたもので……」
「大切なものなんですね。すぐに確認します」
理沙が端末を操作している間、田所は独り言のように呟いた。
「定年退職した翌日に失くすなんて……やっぱり私は、終わった人間なんです」
「え?」
「会社に行かなくなったら、自分が何者なのか分からなくなってしまった。あの万年筆は、私が社会に必要とされていた唯一の証だったのに……」
田所の目には、深い虚無感が漂っていた。
理沙の鼻が、その感情の匂いを捉える。
(うわ……冷たい匂い)
それは、**「雨上がりの濡れたコンクリート」や、流れの止まった「澱んだ水」**のような、冷たく湿った匂いだった。
理沙は奥の棚から、重厚な木箱に入った万年筆を見つけ出した。
そこには、田所の心そのもののような**「灰色の霧」**が、万年筆にべったりとまとわりついていた。
『品名:感情(喪失型)』
『成分:虚無感、所属の喪失、および過去への執着』
(四十年間も頑張ってきたのに……こんなに悲しい気持ちになるなんて、間違ってるよ)
理沙は思った。
定年は「終わり」じゃなくて、自由な時間の「始まり」のはずだ。
このおじさんには、これからの人生を楽しんでほしい。
理沙は木箱を手に取り、大きく息を吸い込んだ。
体調は悪い。でも、だからこそ、この冷たい霧を放っておけなかった。
(飛んでいけ、飛んでいけ。新しい朝が来るよ)
理沙は霧の中に指を沈めた。
ヒヤリ。
指先から、氷水を注ぎ込まれたような強烈な悪寒が走った。
今回の感情は、粘着質ではない代わりに、芯まで凍えるような冷たさを持っていた。
「くっ……!」
霧を吸い込んだ瞬間、理沙の視界がぐらりと歪んだ。
猛烈なめまい。
彼女は思わずカウンターに手をつき、荒い息を吐いた。
(あれ……貧血? 立ちくらみかな……)
額に脂汗が滲む。
それでも理沙は、震える足で踏ん張り、笑顔の仮面を貼り付けた。
***
「お待たせしました、田所さん。こちらですね」
理沙が万年筆を差し出すと、田所はおずおずとそれを受け取った。
その瞬間、彼を取り巻いていた湿っぽい空気が、サァーッと晴れていった。
「……ああ、そうだ」
田所は万年筆の感触を確かめ、顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの虚ろな光はない。
「私はずっと、会社のためにこれを握っていた。……でも、これからは自分のために使ってもいいんですよね」
「はい、もちろんです!」
理沙が答えると、田所は穏やかに微笑んだ。
「妻に、手紙でも書いてみようかな。……いや、昔なりたかった小説家にでも挑戦してみるか」
「素敵です! 応援してます!」
田所は「ありがとう」と力強く言い、背筋を伸ばして雨の中へと帰っていった。
その足取りは、来た時とは別人のように軽やかだった。
理沙はそれを見送ると、ガクンと膝から崩れ落ちた。
「はぁ、はぁ……よかった……」
椅子に座り込み、ぐったりと背もたれに寄りかかる。
なぜだろう。いいことをしたはずなのに、体の芯が凍えたように寒い。
「風邪ひいちゃったかな……」
理沙は自分の体を抱きしめ、小さく震えた。
***
翌朝。
理沙のアパートのベッド。
「……んぅ」
目覚まし時計の音が鳴っているが、理沙は体を起こすことができなかった。
全身が、泥に埋まったように重い。
関節という関節が軋み、熱っぽい倦怠感が体を支配している。
「嘘……動かない……」
理沙は必死に力を込め、這い出すようにしてベッドから降りた。
よろめきながら洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。
背中の痛みが、ズキズキと脈打っている。
彼女はパジャマを捲り上げ、背中を映した。
「ッ!?」
理沙は息を呑んだ。
背中の中心にあった「十円玉くらいのシミ」が、一晩で爆発的に広がっていた。
それはもう、「コースター」……いや、**「大人の手のひら」**ほどの大きさになっていた。
色は濃い墨汁のように黒く、皮膚の下で何かが蠢(うごめ)いているかのように、不気味な模様を描いている。
「なにこれ……え、なにこれ……」
理沙は震える手で黒い痣(あざ)に触れた。
痛みはない。ただ、そこだけ皮膚の感覚がなく、冷たいゴムに触れているようだ。
「変なウイルス? 皮膚炎? ……それとも、過労?」
まさか、自分が吸い取った「感情」が溜まっているなんて、想像もしない。
彼女にとって、能力は「消して無くすもの」であって、「溜まるもの」ではなかったからだ。
「……でも、行かなきゃ」
理沙は青ざめた顔で、解熱剤の瓶を手に取った。
「今日もお年寄りが待ってる。私が休んだら、誰があの人たちを笑顔にするの?」
理沙は薬を水で流し込み、頬を両手で叩いた。
鏡の中の自分に、無理やりの笑顔を作る。
その背中で、黒い痣がドクンと一つ、大きく脈打った。
(第4話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

