連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』第6話 ~地蔵通りの阿鼻叫喚~

昼下がり。

「おばあちゃんの原宿」として親しまれてきた巣鴨・地蔵通り商店街は、今日、この世の地獄と化していた。

「離しなさいよ! この赤パンツは私が先に目をつけたのよ!」

「うるさいわね! あんたみたいな年寄りに、そんな派手なもん似合うわけないでしょ!」

名物の衣料品店では、二人の老婦人が一枚の赤い下着を綱引きのように引っ張り合い、罵声を浴びせ合っていた。顔は憤怒に歪み、入れ歯が外れそうなほどの勢いだ。

和菓子屋の前では、杖をついた老人が、列に並ぶのが遅いと若い店員を杖で殴りつけている。

「お客様は神様だろうが! さっさと塩大福をよこせ!」

道路には、踏み潰された団子や煎餅が散乱し、普段は漂う穏やかな線香の香りは、鉄錆のような血の匂いと、人々の皮膚から立ち上る脂汗の臭気に完全にかき消されていた。

街全体が、真夏のアスファルトから立ち上る陽炎のように、どす黒い瘴気(しょうき)で揺らめいている。

その喧騒の中を、肩を怒らせて闊歩する男がいた。

昨日、理沙から「呪いの腕章」を受け取ったボランティアリーダーの金子だ。

「どけ! 邪魔だ! ゆっくり歩いてんじゃねえ!」

彼は腕章を振りかざし、通行人の老人たちを次々と突き飛ばしていく。

「俺は街を守ってるんだぞ! 感謝しろ! 敬え!」

彼の目には、かつての偽善的な輝きすらなく、ただ剥き出しの支配欲だけがギラギラと宿っていた。

巣鴨は、たった一日で、抑圧された本音が暴発する阿鼻叫喚の巷へと変貌を遂げていた。

***


巣鴨駅地下、遺失物取扱センター。

地上の喧騒が嘘のように、センター内は静まり返っていた。だが、その静けさは、嵐の前のそれよりも遥かに重く、冷たかった。

カウンターの中に、峰岸理沙は座っていた。

季節外れの黒いハイネックのセーターを着て、首元を完全に隠している。肌は陶器のように白く、血の気が全くない。

「いらっしゃいませ」

自動ドアが開き、忘れ物を探しに来た客が入ってくる。

理沙は機械的に立ち上がり、事務的な笑顔を浮かべた。その瞳には光がなく、ガラス玉のように虚ろだ。

彼女は客の忘れ物――例えば、孫の写真が入ったロケットペンダント――を棚から取り出す。

そこには、お年寄り特有の「寂しさ」が少し付着していた。

以前の理沙なら、それを吸い取って綺麗にしていただろう。

だが今は違う。

理沙はペンダントを握りしめ、体内の奥底に溜まった、ドロドロとした「黒いヘドロ」を指先に集める。

そして、それをペンダントへと注入した。

『憎みなよ。あんたを一人にする家族なんて』

『あんただけが我慢する必要なんてないんだよ』

理沙の脳内で、誰かの声が囁く。

彼女はそれを、自分の意志だと信じ込んでいた。

「はい、どうぞ。大切なものですから、なくさないでくださいね」

ペンダントを受け取った老人が、店を出た瞬間に「チッ、面倒くさい家族だ」と舌打ちをするのが聞こえた。

それを見て、理沙の口角が吊り上がる。

(そう、それでいい。みんな、解放されればいい)

体内に溜まりすぎて破裂しそうだった「他人の悪意」を吐き出すたびに、背中を這い回る蔦の締め付けが少し緩む気がした。

脳が痺れるような、暗い快感。

彼女はもう、自分が何をしているのか、正しく認識できなくなっていた。

***


同時刻。山手線外回り電車内。

並んで座る二人の男が、周囲の乗客から奇異の目で見られていた。

一人は、制服の帽子を目深に被り、季節外れの白い手袋をした男――相沢。

もう一人は、昼間からサングラスをかけ、ごついヘッドホンを首にかけた柄の悪い男――須藤。

「……ったく、なんで俺が巣鴨なんかに。休日は新宿の地下で寝てたいんだよ」

須藤が貧乏ゆすりをしながら悪態をつく。

「文句を言わないでください、須藤さん。新宿の『掃除屋』であるあなたの力が必要なんです」

相沢は窓の外を流れる景色を見つめたまま、静かに言った。その表情は険しい。

「ただ事ではありません。以前、あなたが経験した新宿の『決壊』とは違う。もっと意図的で、悪質な『汚染』を感じます」

電車が巣鴨駅に近づくにつれ、車内の空気が変わった。

乗客たちが理由もなくイライラし始め、舌打ちや足踏みの音が聞こえ始める。

須藤が顔をしかめ、ノイズキャンセリングヘッドホンのスイッチを入れた。

「……うわ、臭(くせ)え音。湿った雑巾を絞り上げるような音がしやがる。新宿のノイズより質(タチ)が悪ぃぞ」

「ええ。……到着です」

***


二人が巣鴨駅のホームに降り立つと、そこはすでに異様な空気に包まれていた。

駅員に怒鳴り散らす客。肩がぶつかっただけで掴み合いになるサラリーマン。

充満する悪意が、物理的な熱気となって肌にまとわりつく。

「……ひどいですね。街全体が病気にかかっているようだ」

相沢が呟く。

「発生源は、間違いなくあそこですね」

二人の視線が、地下の奥にある「遺失物取扱センター」の扉に向けられた。

***


ウィィィン……。

自動ドアが開き、二人の男がセンターに足を踏み入れた。

室内は、照明がついているはずなのに、薄暗く感じられた。

空気が、墨汁を垂らしたように黒く濁っているからだ。

カウンターの中央に、黒い服を着た女――理沙が座っていた。

彼女の背後には、巨大な食虫植物の影のような、どす黒いオーラがゆらりと蠢(うごめ)いている。

理沙はゆっくりと顔を上げ、二人を見た。

そして、能面が割れたような、歪な笑みを浮かべた。

「あら、いらっしゃいませ」

その声は、鈴を転がすようだった以前の声とは似ても似つかない、老婆のような嗄(しゃが)れた声だった。

「あなたたちも、何か『捨てたいもの』があるんですか? 私が、代わりに引き受けてあげますよ?」

相沢は真っ直ぐに理沙を見据え、一歩前に出た。

「ええ。あなたを助けに来ました、峰岸理沙さん」

一方、須藤は一歩下がり、露骨に嫌そうな顔で鼻をつまんだ。

「おい、相沢。助けるだぁ? ……こいつはもう手遅れじゃねえのか? 中身まで腐ってやがるぞ」

巣鴨の地下で、最凶の状態と化した「悪意の女王」と、歴戦の能力者二人が対峙した。

(第7話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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