連載小説『感情の忘れ物3 巣鴨・峰岸理沙編』第7話 ~黒いヘドロと人間のパイプ~

「……見せてあげる。私の、綺麗な宝物」

カウンターの中に立つ峰岸理沙が、ゆらりと両手を広げた。

その瞬間、彼女の背後に蠢(うごめ)いていた巨大な影が、爆発的な勢いで膨れ上がった。

ドォォォォォン!!

物理的な衝撃波ではない。それは、圧縮された**「不協和音の爆風」**だった。

数千人分の「妬み」「恨み」「絶望」が、ミキサーにかけられ、鼓膜をつんざく金切り声となって二人に襲いかかる。

「ぐ、がああああああッ!!」

須藤はその場にうずくまり、ヘッドホンごと耳を押さえた。

「なんだこの音は……! 黒板を何万回も爪で引っ掻いたような……脳みそが腐るッ!」

高性能なノイズキャンセリング機能など、何の意味もなさない。音が直接、神経をやすりで削ってくる。

相沢もまた、強烈な風圧にコートをバタつかせながら、必死に足を踏ん張っていた。

「……質量が、桁違いですね。彼女自身がもう、人間ではなく『巨大な忘れ物』そのものになりかけている」

理沙の背中から、黒い蔦(つた)のようなものが実体化し、鞭のようにしなった。

ヒュンッ!

相沢の頬をかすめ、コンクリートの壁に亀裂を入れる。

物理的な破壊力すら伴い始めている。

「来ないでよ。これは私が集めたの。みんなの痛みを、私が食べてあげたの」

理沙の瞳は焦点が合わず、夢遊病のように呟き続けている。

彼女は、自分が溜め込んだ不幸の塊を「宝物」だと認識違いを起こしていた。

完全に、あちら側へ堕ちている。

***


「……くそッ、どうすんだよ相沢!」

須藤が物陰に転がり込み、怒鳴った。

「あんなバケモノ、近づけねえぞ! 掃除機持ってこい掃除機!」

相沢は冷静に、しかし険しい表情で理沙を観察していた。

「無理です。彼女の体内に蓄積されたネガティブな感情は、すでに身体組織と強固に癒着しています。外部から無理やり剥がそうとすれば、彼女の精神ごと崩壊してしまうでしょう」

「じゃあどうすんだよ! 見殺しか!?」

「……内側から、引き抜くしかありません」

相沢は静かに須藤の方を向いた。

その目は、冷徹な外科医のように透き通っていた。

「須藤さん。あなたが『パイプ』になってください」

「は?」

須藤が間の抜けた声を出す。

「彼女の精神の深部まで潜り込み、汚染源に直接アクセスできるのは、あなたの『強制共有(シンクロ)』だけです」

相沢は淡々と、恐ろしい作戦を口にした。

「あなたが彼女と繋がり、通路を作る。そして、私があなたのもう片方の手を掴み、あなたというパイプを通して、彼女の中のヘドロを私が吸い出し、浄化します」

須藤の顔色が、青を通り越して土気色になった。

「ふ……ふざけんな!!」

須藤は絶叫した。

「俺の体に、あいつの中のドロドロを通すってのか!? あの腐ったヘドロを!? 死んでも御免だ! お前がやれよ!」

「私には『繋げる』能力はありません。それに、躊躇している暇はない」

相沢は理沙の方を見た。黒い蔦がさらに膨張し、天井を突き破ろうとしている。

「このままでは、巣鴨だけでなく山手線全体が汚染されますよ。……それに」

相沢は須藤を見据えた。

「あんなひどい騒音、一秒でも早く止めたいでしょう?」

「ッ……!!」

須藤はギリリと奥歯を噛み締めた。

究極の二択。

ここで逃げて一生このノイズに苛まれるか、一時の地獄を味わって静寂を取り戻すか。

答えなど、決まっていた。

「……クソが!! 終わったら一生分の高いコーヒー奢れよ!!」

須藤は叫ぶと同時に、床を蹴った。

「オラァァァァッ!!」

破れかかったヘッドホンをかなぐり捨て、黒い暴風の中へ真正面から突っ込んでいく。

蔦が鞭のように襲いかかる。

須藤はそれを紙一重でかわし、スライディングで懐に潜り込んだ。

「捕まえたぞ、バカ女!!」

須藤の左手が、理沙の手首をガシッと掴んだ。

バチッ!!

強制接続。

「――ぎ、ゃああああああああああああッ!!!」

須藤の口から、人間とは思えない悲鳴がほとばしった。

一瞬で、彼の血管がドス黒く変色し、ミミズ腫れのように浮き上がる。

「汚ねぇ! 重い! 臭い! 痛えええええええッ! 入ってくんなァァァ!」

理沙の体内から逆流してきたのは、数ヶ月分の「他人の悪意」の原液だ。

下水と硫酸を混ぜて血管に流し込まれるような激痛と嫌悪感。

須藤は白目を剥き、泡を吹きそうになる。

「繋ぎます。……耐えてください」

遅れて飛び込んだ相沢が、須藤の空いている右手を両手で包み込んだ。

瞬間、回路が開通した。

ズズズズズズズ……!

理沙の背中を覆っていた黒い蔦が、シュルシュルと音を立てて収縮し、腕を通って須藤の体内へと移動していく。

須藤の体は、まさに「排水管」だった。

他人の吐瀉物のような感情が、自分の心臓を通り、血管を駆け巡り、右腕へと抜けていくおぞましさ。

「オェッ……ぐ、あ、あ……殺せ、いっそ殺せ……!」

須藤が痙攣する。

だが、相沢の手は離さない。

須藤の右腕から流れ込んできた黒い霧を、相沢は自らの体で受け止め、瞬時に変換していく。

相沢の手のひらから、キラキラとした光の粒子が放出され、センターの天井へと舞い上がっていく。

汚泥を真水に変える、神業のようなフィルタリング。

相沢の額にも、玉のような汗が浮かんでいた。

「あと少し……あと少しです……!」

数分間にも感じる、地獄のような数十秒。

理沙の背中から、最後の「巨大な根」が引き抜かれ、須藤の体を通過した。

「が、はッ!!」

須藤が大きく血を吐いた。

同時に、相沢の手から最後の一粒の光が空へと昇った。

ドサッ。

理沙が糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

「……あ……」

彼女の背中を覆っていた黒い痣は、跡形もなく消え去っていた。

「オェェェ……最悪だ……」

須藤は床に這いつくばり、胃液を吐きながら呻いた。

「俺の体の中……全部、漂白剤で洗いてえ……」

全身汗まみれで、泥水の中を泳いできたかのような惨状だ。

一方、相沢は肩で息をしながらも、手袋の埃を払うように整え、涼しい顔で立っていた。

「……手術完了です。お見事でしたよ、須藤さん」

「てめぇ……絶対に許さねぇ……」

センター内の空気が、嘘のように澄み渡っていた。

静寂。

あの不快なノイズも、腐敗臭も、すべて消えていた。

倒れていた理沙が、うっすらと目を開けた。

ぼやける視界。

目の前には、ボロボロで痙攣しながら悪態をついている、サングラスの怖い男。

そして、その後ろで、天井からの光を背負って後光が差しているように見える、白い服の男。

「……天使と、悪魔……?」

理沙は状況が理解できないまま、再び深い眠りへと落ちていった。

(第8話 最終話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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