五月雨(さみだれ)とは、本来、梅雨どきに降り続く長雨を指す言葉である。
だが、沖田史郎にとって今夜の雨は、そのような詩情豊かな語義とはまったく無縁の、純粋な障害物として空から落下してきた、悪意ある水の粒子に他ならなかった。
話は、今から一週間前に遡る。
―― その日、沖田はカレンダーアプリを開き、本日の日付に一つのイベントを登録した。
「日本代表 試合観戦」
テキストを打ち込む指先に、静かな、しかし確固たる意志が宿っていた。
これは単なる娯楽の予定ではない。
一週間という時間を、彼はこの一点へと収束させるべく、精緻な計画を練り上げたのだ。
火曜の懸案事項は水曜に片付け、水曜の積み残しは木曜の午前中に処理し、金曜にかかりそうな案件は木曜の深夜残業で前倒しした。
上司への報告、部下への指示、取引先へのメール。
すべての歯車を噛み合わせ、調整し、今日という一日が、完璧な「空白」として完成するよう設計した。
それはほとんど、芸術的な所業だった。
そして今、その成果が結実している。
午後五時三十分。定刻。
沖田は椅子から立ち上がった。
その動作に、慌てたところは微塵もない。
鞄を持ち、ジャケットを羽織り、デスクを一瞥する。
乱れなし。
沖田は静かに、しかし確かな高揚を胸の奥底に燃やしながら、社内の空気に向かって呟いた。
「お先に失礼します」
誰が聞いているわけでもない。
だが、その声音は低く、落ち着いており、余裕というものを体現していた。
脳裏では既に試合が始まっていた。
ビールの缶を開ける音がした。
冷えた液体が喉を落ちていく感触があった。
日本代表のフォワードが、電光石火の先制ゴールをぶち込んでいた。
エレベーターが一階へ沖田を運ぶ。
扉が開き、ロビーに踏み出す。認証カードをゲートにかざす。
軽い電子音と共に、沖田は解放された。
その瞬間、彼はふと視線を上げた。
ガラス扉の向こう側に、雨が降っていた。
しとしとと、音もなく、しかし確実に、地面を濡らしながら降っていた。
沖田の思考が、一拍、停止した。
そうだ。今朝、天気予報が言っていた。
傘は、デスクの脇に立てかけたままだ。
あの、ブラックの折り畳み傘が。
沖田は踵を返し、エレベーターに乗った。
上昇する箱の中で、彼は今から起こることを、粛々と予測していた。
長年の会社員生活が培った経験則が、次のシーンを精確に描写していた。
扉を開けると、部下の山下がニヤニヤしながら言ってくるのだ。
「あれ、沖田さん、おはようございます! 今日はやけに早いですね!」と。
これは法則である。
サラリーマン社会が生んだ、逃れられない様式美だ。
沖田は考えた。
通常の自分であれば、「傘を忘れた」と、冷静かつ簡潔に返す。
それで終わりだ。
だが、今日の自分は違う。
これから日本代表の試合とビールが待っているのだ。
心は弾み、精神は解放されている。
ここは一つ、上司の度量というものを見せてやろうではないか。
山下のニヤつきを逆手に取り、こちらから先制攻撃を仕掛けるのだ。
「おはよう。昨日頼んでおいた資料できているか? 早速打ち合わせをはじめよう」
沖田は口の中でリハーサルを済ませた。
完璧だ。
小気味よく、余裕があり、上司としての威厳も損なわれていない。
我ながら惚れ惚れとするような返し文句だ。
エレベーターが目的の階で止まった。
扉が開く。
沖田は廊下に出て、事務室のドアの前に立った。
ドアノブを握る右手に、微かな緊張と期待が宿った。
これはもはや、傘を取りに来るという行為ではない。
一週間に及ぶ完璧な作戦の、締めくくりの一幕だ。
彼はドアを開けた。
「あっ! 沖田さん、ちょうど良いところに!」
山下の声が飛んできた。
だが、そこにニヤつきはなかった。
山下の顔は、血の気が引いた青白さで歪んでおり、それはどこからどう見ても悲壮感に満ちた顔であった。
「今お客様から問い合わせがあって、システムトラブルのようで!至急、調査に協力してください!!」
沖田の脳内で、日本代表のフォワードが放ったシュートが、ゴールバーに当たって跳ね返った。
沖田は山下の顔を見た。
次に、室内を見渡した。
徳田部長の存在に気づいた。
鬼の形相でパソコンに向かっている。
その背中から怒気が滲み出ている。
部長は沖田を見ることなく、しかし沖田の気配を察知したのか、低く唸るような声を発した。
「沖田か。よし!今から先方に出向いて、こちらのサポートチームとやり取り頼む!!」
その瞬間、沖田の脳内スタジアムで、最終ホイッスルが鳴り響いた。
延長戦も、PK戦も、なかった。
「え、いや、あの……」
彼の口から零れ落ちた三音節は、抵抗でも反論でもなく、溺れかけた者が水面に向かって吐き出す最後の泡のようなものだった。
一週間にわたる精緻な作戦立案。
火曜の処理、水曜の調整、木曜の深夜残業。
積み上げた計画の総体が、今この瞬間、完全な無意味へと変容した。
それはちょうど、精魂込めて作り上げた砂の城が、一波の引き潮によって、根こそぎ均されるのに似ていた。
沖田は窓の外に目をやった。
雨は、依然として降り続いている。
傘は、まだデスクの脇に立っている。
ビールは、まだ冷蔵庫の中にある。
青天の霹靂という言葉がある。
晴れ渡った空に突如として落ちる雷。
予想もしなかった災厄を指す。
だが、沖田は今、確信していた。
人生の真の霹靂は、晴れの日には落ちない。
雨の日に、傘を取りに戻った、その数分の隙を狙って落ちてくるのだ。
一週間前、カレンダーアプリに打ち込んだ一行のテキストだけが、今も沖田のスマートフォンの中で、純粋無垢に輝き続けていた。
「日本代表 試合観戦」
(終)