午後五時三十二分。
沖田史郎は、その日最後の業務を終えた。
未返信メールはない。明日の会議資料も共有済みだ。急ぎの問い合わせも来ていない。
デスクの上には、今日という一日に対する未練が一片も残されていなかった。
沖田は静かに席を立った。
「お先に失礼します」
その言葉は誰に向けられたものでもない。それはむしろ、自らの労働に対する終幕宣言だった。
彼はエレベーターホールへ向かった。
夕刻のオフィスには独特の空気がある。
残業を覚悟した者たちの諦念。まだ終わらぬ会議への倦怠。そして、定時退社に成功した者だけが纏うことを許された解放感。沖田は後者だった。
エレベーターが到着する。扉が開く。中には誰もいない。貸切である。
沖田は一人乗り込んだ。一階のボタンを押す。そして反射的に「閉」のボタンへ指を伸ばした。社会人は忙しい。たった数秒であろうと短縮できる時間は短縮する。それは現代人の矜持(きょうじ)であり、本能でもあった。
カチッ。
ボタンが押される。扉が閉まり始める。
ウィーン。
その時だった。
閉まりゆく扉の隙間の向こう側。廊下の奥から、一人の女性が駆けてくるのが見えた。経理部の高橋美咲。社内で密かに「マドンナ」と呼ばれる存在である。長い髪を揺らしながら走っている。右手には書類の束。左肩にはバッグ。明らかにエレベーターを目指していた。
沖田は瞬時に状況を理解した。
まずい。このままでは閉まる。彼女は乗れない。
そして沖田は次の瞬間、自分自身に驚いた。なぜなら彼の心には、微かな高揚感が芽生えていたからだ。人は時に試される。親切とは何か。思いやりとは何か。社会人としてあるべき姿とは何か。今まさに、その問いが自分へ投げかけられている。
高橋がこちらを見る。沖田を見る。そして閉まりゆく扉を見る。その瞳の奥には確かな期待があった。押してくれる。この人なら押してくれる。その信頼が見えた気がした。
沖田は穏やかに微笑んだ。安心してください。私がいます。そう語りかけるような微笑みだった。
そして彼は右手を伸ばした。指先には確かな使命感が宿っていた。
カチッ。
その瞬間だった。エレベーターの扉が、明らかに加速した。
ウィィーン。
「あっ」
沖田の口から、間抜けな声が漏れた。
閉まりゆく扉の隙間。その向こうに高橋の顔が見える。最初は安堵。次に困惑。そして理解。さらに怒り。その全てが、一秒にも満たない時間で通り過ぎていった。
ウィィーン。
完全閉鎖。
最後に見えたのは、鬼神のごとき形相だった。
世界が停止した。
沖田はゆっくりと視線を落とした。自らの親指。そして操作盤。
そこには冷酷な一文字が記されていた。
『閉』
沖田の思考が凍結する。
閉。閉である。開ではない。閉である。この二つの文字は隣り合っている。だが、その距離は今や太平洋より広かった。
エレベーターは静かに下降を始めていた。
沖田は考えた。
待て。まだ結論を出すには早い。確かに私は閉を押した。それは事実だ。だが、人は結果だけで裁かれるべきなのだろうか。重要なのは動機ではないのか。私は助けようとしたのである。助けようとして閉め出しただけなのだ。本質的には善意である。むしろ悪意が存在しない以上、これは事故として処理されるべき案件ではないか。
脳内で弁護人が立ち上がる。さらに別の声が続く。
そもそも高橋さんも少し遅かったのではないか。あと一秒。いや、〇・五秒でも早ければ間に合っていた。これは私一人の責任と言い切れるのだろうか。
さらに言えば。高橋さんは本当にエレベーターへ乗りたかったのか。途中で忘れ物を思い出した可能性もある。そうだ。もしかすると私は彼女を救ったのではないか。忘れ物という未来の事故を未然に防いだのでは——
チン。
一階に到着した。扉が開く。
エレベーターホールに高橋美咲が立っていた。
隣のエレベーターで降りてきたのである。
高橋は沖田を見た。ただ一瞬だけ。その視線は静かだった。静かだったが、南極の氷床よりも冷たかった。会釈はない。笑顔もない。言葉すらない。ただ、「あなた、わざとやりましたよね」という確信だけが、その瞳の奥に存在していた。
沖田は硬直した。
違う。違うのだ。私は開を押そうとした。助けようとした。むしろ善意だった。そう説明したかった。
だが。もし自分が高橋の立場だったらどうだろう。閉まりかけたエレベーター。中にいる社員。目が合う。その社員が微笑む。ボタンを押す。ドアが加速して閉まる。
どう考えても故意犯である。
高橋はそのまま歩き去った。ヒールの音だけがホールに響く。
カツ。カツ。カツ。
まるで判決文を読み上げる裁判官の木槌のようだった。
やがて自動ドアが開く。夕暮れの光が差し込む。
高橋の背中は、そのまま街の雑踏へ消えていった。
沖田は一人、その場に立ち尽くしていた。
夕陽が差し込む。
操作盤の『開』ボタンだけが、黄金色に光を反射していた。
まるで最初からそこに存在していた正解が、何も言わずに沖田を見つめ続けているようだった。
(終)