長編SF小説『僕らが溶け合う境界線 エピソード ゼロ』File.04 ~罪と規律のカルテ~

―― ミナ・ハーグリーブスの手記より ――

日付: X年 10月 14日 雨
対象: 被検体 R-01(識別名:レン)
経過: 人格移植術後 7日目
状態: 適合率 98.2%・安定

深夜2時。

地下診療所のモニターだけが、薄暗い部屋を青く照らしている。

ベッドの上で、彼が眠っている。

規則正しい寝息。正常な心拍数。レム睡眠を示す脳波の波形。

……成功だ。

私の作った「プログラム」は、破壊された彼の脳神経に見事に定着した。

1週間前、私は彼を『死』という運命から盗み出した。

いや、地獄の淵から彼を拾い上げたと言うべきか。

あの日。

警報音が鳴り響く実験室に、一人の「侵入者」が拘束されて引きずり込まれてきた。

パペット・ワルツの『マスターデータ』を盗み出そうとし、失敗して捕らえられた男。

……全身を血に染め、床に転がされたその姿を見た瞬間、私の心臓は凍りついた。

レン。

私の愛した人。

皮肉なことだ。

私が彼を救えたのは、私が「人の脳を壊す技術」を持っていたから。

そして、彼を再び動かすことができたのも、私が「人の脳を操る技術」を持っていたからだ。

彼、レンの脳はひどく損傷していた。

そのままでは生命維持すら危うい状態だった。

だから私は、空っぽになった彼の脳に「蓋(ふた)」をした。

私の持てる全ての知識を動員して書き上げた、仮初めの人格プログラム。

それが、今ベッドで眠っている「彼」だ。

この新しい人格(仮称:『私』)の設計には、3つの意図を込めた。

一つ目は、「リハビリテーション」。

私は彼を極度の潔癖症、かつ完璧主義者に設定した。

毎朝、決まった時間に起き、決まった温度でコーヒーを淹れ、ミリ単位で部屋を掃除する。

これは性格ではない。毎日行われる「システム動作確認(デバッグ)」だ。

微細な指の動きや、時間感覚のズレを自己補正させることで、焼き切れた神経回路を迂回し、新しいシナプスを繋ぎ合わせる。

彼が几帳面であればあるほど、レンの肉体は修復されていく。

二つ目は、「カモフラージュ」。

エーテル社が探しているのは、荒々しく、直情的で、野獣のようなレンだ。

だから私は、正反対の属性を与えた。

感情を持たず、変化を嫌い、無機質な事務作業を愛する男。

もし街中で追っ手とすれ違っても、誰もこの青白い顔の仕事人が、あの「廃棄された実験体」だとは気づかないだろう。

そして三つ目は、**「罠」**だ。

私は彼に、「記憶の金庫番」という仕事を与えた。

裏社会の秘密データを脳に預かる仕事。

……レンが命がけで盗み出し、どこかに隠した『マスターデータ』。

その所在は不明だが、あれほどの危険物だ。必ず裏社会のどこかで流通し、強力な「隠し場所」を求めて彷徨うはずだ。

だから、罠を張る。

彼自身が「器」となり、いつか運命が巡り巡って、その『鍵』が彼の元へ持ち込まれるのを待つのだ。

……残酷な計画だと思う。

私は彼を愛していると言いながら、彼を自分の最高傑作(サイボーグ)として利用している。

『……ん……』

ベッドの彼が寝返りを打った。

無防備な寝顔は、かつてのレンそのままだ。

思わず手を伸ばし、その頬に触れる。温かい。

けれど、もうあの日のように私に笑いかけてはくれない。

明日目が覚めれば、彼は私を「先生」と呼び、事務的な敬語で話すだろう。

私の好きな、熱い瞳で「ミナ」と呼んでくれる彼は、もうここにはいない。

私の胸元には、銀色のロケットペンダントがある。

ここには、レンの「心」のバックアップデータが入っている。

彼が植物状態になる直前、私が必死にかき集めた、彼の魂の欠片。

いつか、『鍵』が彼の元に届く日が来たら。

その鍵が、彼の脳のロックを解除し、強靭な肉体を目覚めさせたら。

このペンダントを使って、彼を本当の意味で呼び戻そう。

それまでは、私が守る。

どんなに寂しくても、どんなに「偽物」の彼に心が揺れても。

私は医師として、冷徹に、この「愛しい実験体」を管理し続ける。


《―― ページを何枚かめくる ――》

……そろそろ寝なくては。

明日は彼の検診日だ。

「私」さんは、また完璧なデータを持って現れるだろう。

私は笑って、「順調ね」と言う練習をする。

この罪深き実験が、いつか、幸福な結末(ハッピーエンド)を迎えることを信じて。

(エピソード ゼロ File.05へつづく)