――「依頼人(運び屋)」の走り書きのメモ ――
日付: X+3年 10月 14日 雨
場所: 国道沿いの排水路 一時退避ポイント
息が切れる。心臓が早鐘を打っている。
だが、手は軽い。
あの鉛のように重かった「チップ」は、もう俺の手にはない。
渡した。渡しちまった。
……あいつの顔をした、「あいつじゃない誰か」に。
3年前。あの大雨の夜のことを思い出す。
俺とレンは、エーテル社の研究所から脱出しようとしていた。
警報が鳴り響き、武装した衛兵たちが通路を塞ぐ。
俺は恐怖で足がすくんでいた。ただの運び屋風情が、手を出しちゃいけないヤマだったんだ。
『おい、カイ。これを持って走れ』
レンは、盗み出したばかりの黒いチップを俺の胸ポケットにねじ込んだ。
それは、奴らが血眼になって探している「マスターデータ」だった。
『レン、お前はどうするんだ!』
『俺が囮(おとり)になる。お前はそのチップを持って、絶対に捕まるな』
『無理だ! 俺一人じゃ逃げきれねえ!』
レンはニカッと笑った。あの、いつもの不敵な野良犬の笑みで。
『大丈夫だ。……ほとぼりが冷めたら、ミナのところへ持って行ってくれ。あいつなら、扱い方を知ってるはずだ』
そう言い残して、レンは銃弾の嵐の中へ飛び出していった。
俺は走った。背後でレンの怒号と、何かが壊れる音が聞こえたけれど、一度も振り返らなかった。
それからの3年間は、地獄だった。
ミナの診療所には近づけなかった。エーテル社の監視の目が、四六時中張り付いていたからだ。
俺がうかつに近づけば、ミナも殺され、チップも奪われる。
俺は地下に潜り、偽名を使い、ドブネズミのように逃げ回った。
チップはずっと懐にあった。
こいつを捨てれば楽になれる。何度もそう思った。
だが、捨てられなかった。
これはレンの命そのものだ。あいつが自分の明日と引き換えに、俺に託した希望だ。
そして今日。ついに限界が来た。
奴らの包囲網が狭まり、もう隠れ場所がなくなった。
俺は賭けに出た。
裏社会で噂になっていた「記憶の金庫番」を使うことにしたんだ。
『どんな危険なデータでも、脳内に隠して運んでくれるプロがいる』
そんな噂を頼りに、俺はそのアパートのドアを叩いた。
出てきた男を見た瞬間、俺は腰を抜かしそうになった。
レンだ。
死んだと思っていた、レンがそこにいた。
同じ顔、同じ声、同じ背格好。
「……あ、あんたが。『金庫番』……なのか?」
俺は震える声で尋ねた。
だが、返ってきたのは、まるで機械のような冷たい反応だった。
「そうです。お座りください」
違う。こいつはレンじゃない。
レンなら、あんな綺麗にアイロンのかかったシャツなんて着ない。
あんな無機質な目で、俺を見たりしない。
じゃあ、こいつは誰だ? レンであって、レンじゃないこの「亡霊」は。
だが、時間がない。追っ手はすぐそこまで来ている。
俺はチップを叩きつけた。
「頼む……これを、預かってくれ!」
奴は淡々と処理を進めようとした。
俺は焦った。コピーじゃ意味がない。こいつは特殊な『鍵』なんだ。
「頭に直刺し(マウント)したまま運んでくれ!」
俺は無茶な注文をした。
奴は一瞬の躊躇もなく、チップを自分の首筋に突き立てた。
その時だった。
奴が苦しみ出した。
ただの痛みじゃない。何かが、内側から溢れ出てくるような苦しみ方。
(……てえな)
俺は耳を疑った。
奴の口からではなく、もっと深いところから、聞き覚えのある声が響いた気がしたからだ。
レンだ。レンの声だ。
俺は悟った。
こいつは亡霊なんかじゃない。
こいつは「器」だ。レンの肉体を使った、誰かの作り出した金庫だ。
そして、その奥底には……まだ「あいつ」が眠ってる。
遠くでサイレンが聞こえた。
もう行かなきゃならない。
俺の役目は、ここまでだ。
俺はドアに向かって走り出した。
最後に、振り返って叫んだ。
「頼んだぞ! 3日後、街外れの『ミナ診療所』のところへ届けてくれ! 彼女なら……彼女なら、これが何かわかるはずだ!」
ミナ。
あんたが恋人の体をどうやって生かしたのか、俺にはわからない。
だが、あんたはずっと待ってたんだろ?
この鍵が、あいつの元へ帰る日を。
俺は雨の中へ飛び出した。
今度は俺が囮になる番だ。
レン。お前の体は、お前の魂は、あいつ(金庫番)がきっと届けてくれる。
3年越しの約束、やっと果たせたぜ。
……さて、派手に逃げ回るとするか。
野良犬の逃げ足の速さ、見せてやるよ。
***
(『僕らが溶け合う境界線 エピローグ』へつづく)

