長編SF小説『僕らが溶け合う境界線』エピローグ ~愛という名の最後の計算式~

―― エーテル社解体から数ヶ月後 ―― 

本棚の医学書を、「著者名のアルファベット順」に並べ替えている自分に気づいて、俺は苦笑した。

昔の俺なら、読みたい本が一番手前にあればそれでいい雑な男だった。

だが今は、背表紙が1ミリでもズレていると、背中がむず痒くなる。

「……几帳面な野郎だ。こんな癖まで残していきやがって」

俺は指先で、綺麗に整列した本をなぞる。

首筋の接続端子(ポート)にはもう、あの重たいチップはない。

けれど、俺の脳内には確かに「あいつ」が溶けている。

『私』という名の、俺の相棒が。

リビングのテレビからは、ニュースキャスターの無機質な声が流れていた。

『――本日、元エーテル社幹部らに対する初公判が行われ……検察側は、非人道的な人体実験の決定的証拠を提出……』

画面には、手錠をかけられたかつての上司たち、そしてあの憎きGの姿が映っていた。

本来なら、その隣にミナが立っていてもおかしくなかった。

彼女は「パペット・ワルツ」の開発主任であり、多くの実験体を「処理」した実行犯の一人なのだから。

キッチンで洗い物をしていたミナの手が止まる。

彼女の背中が小さく震えているのがわかった。

「……私が、あそこにいないなんて。今でも信じられないわ」

消え入りそうな声だった。

「私は、裁かれるべきだったのに」

俺は本棚から離れ、彼女の元へ歩み寄った。

そして、後ろからその華奢な肩を抱きしめる。

「裁かせねえよ。……あいつが、そう決めたんだ」

あの日。

俺たちが「マスターデータ」を世界にばら撒き、警察に提出した時。

俺はデータの膨大なリストを見て、息を呑んだ。

あの几帳面で、融通の利かない『金庫番』が、たった一つだけ「不正」を働いていたのだ。

提出用データフォルダの中身は、完璧に整理されていた。

幹部の横領、違法実験の命令系統、資金の流れ。すべてが明白な証拠として揃っていた。

だが、そこにあるはずの**「ミナ・ハーグリーブス」**の名前だけが、あまりにも不自然に、そして完璧に消去されていたのだ。

彼女のサインが入った書類は黒塗りされ、彼女の研究ログは「匿名のエーテル社研究員 A」に書き換えられていた。

そして、ログの最後に、あいつの思考メモが一行だけ残されていた。

《 ――エラー修正報告: 対象者ミナ・ハーグリーブスに関するデータは、ノイズであるため削除しました。彼女は加害者ではなく、このシステムを維持するための「不可欠な構成要素」と定義します 》

あいつは、最期まで計算していたのだ。

エーテル社を潰し、俺の体を取り戻し、その上で**「ミナが罪に問われない確率」**を100%にする方法を。

嘘をつくのが苦手なはずのあいつが、命がけでついた、生涯最初で最後の優しい嘘。

「警察だって馬鹿じゃない。お前の関与を疑ってはいたさ」

俺はミナの髪を撫でながら言った。

「だが、被害者がいねえんだ」

警察が事情聴取に来た時のことを思い出す。

俺は取調室で、机を叩いて刑事に凄んでみせた。

『彼女は俺を拉致したんじゃない。道端で死にかけていた野良犬を拾って、治療してくれた命の恩人だ。被害者の俺がそう言ってるんだ、文句あるか?』

記録(データ)がない。被害者(オレ)が訴えない。

そして何より、ミナ自身が捜査当局に「内部告発者」として協力し、システムの解除コードを提供したことで、司法取引が成立した。

「……でも、私の罪は消えない」

ミナが振り返り、潤んだ瞳で俺を見上げる。

「あの子たちを犠牲にした事実は、消えないのよ」

「ああ、消えない」

俺は否定しなかった。

「だから、生きて償うんだ。塀の中でただ座って時間を潰すんじゃねえ。この診療所で、お前のその腕で、一人でも多くの人間を救うんだ」

俺は自分の胸を叩いた。

「俺を生かしたその腕なら、できるはずだろ?」

ミナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

彼女は俺の胸に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。

俺はその背中を、あいつの分まで強く抱きしめた。

窓の外は、突き抜けるような青空だ。

あの雨の日々が嘘のように、世界は光に満ちている。

俺たちには「前科」はないかもしれないが、「傷」はある。

俺の脳には拷問の痕跡が、彼女の心には罪の記憶が。

そして俺たちの真ん中には、もうここにはいないけれど、確かに存在した「彼」の記憶がある。

『……そろそろ、コーヒーの時間だ』

ふと、脳内で声がした気がした。

俺はミナを離し、ニッと笑った。

「さて、休憩にするか。とびきり美味いコーヒーを淹れてやる」

「……ふふ、ええ。……お願いね、レン」

俺はキッチンに立つ。

お湯の温度は82度。抽出時間は3分ジャスト。

これが、俺たちの新しい「規律(ルーチン)」だ。

俺たちは生きていく。

溶け合った境界線の向こう側で。

罪も、愛も、あいつの計算式も、すべてを飲み込んで。

(完)

***

(『僕らが溶け合う境界線 あとがき』へつづく)