その日、相沢は開店と同時に暖房の設定温度を上げた。
季節は初夏だというのに、カウンターの内側だけが異常に冷え切っていたからだ。
原因は、目の前にある一つの小瓶だった。
それは今朝、中央線の網棚から回収されたものだ。
小瓶の中には、凍てつくような青白い光が渦巻いている。
相沢が手袋越しに触れると、ジジジ……という音と共に、ドライアイスに素手で触れた時のような「焼ける冷たさ」が走った。
皮膚が張り付くような感覚。そして、無数の鋭利な針が指先を刺してくるような痛み。
相沢は顔をしかめ、思わず手を引っ込めた。
吐く息が白くなりそうだ。
業務日報に向かう手も、微かに震えている。
『拾得日時:〇月×日 午前七時』
『拾得場所:中央線 青梅特快(上り)6号車』
『品名:感情(攻撃型)』
『成分:純粋な殺意』
これほど純度が高く、鋭利な殺意は珍しい。
この持ち主は、誰かを殺したいと願っている。それも、突発的な怒りではなく、冷徹に、確実に息の根を止めようとする、研ぎ澄まされた刃のような意志だ。
相沢は、その横にある「物理的な忘れ物」に視線を移した。
画面が蜘蛛の巣状にひび割れた、ピンク色のスマートフォン。
その破壊の痕跡が、持ち主の置かれている壮絶な状況を物語っていた。
***
正午過ぎ。
センターの自動ドアが開き、一人の女性が入ってきた。
三十代だろうか。上品なワンピースを着ているが、その顔色は蝋人形のように蒼白だった。
首元には、季節外れのスカーフが巻かれている。おそらく、下にある痣を隠すためのものだろうと相沢は推測した。
「あの……スマホを、忘れてしまって」
声が震えている。彼女は周囲を怯えたように見回し、誰かに追われているかのような挙動を見せた。
相沢は割れたスマートフォンをカウンターに出した。
「こちらですね」
女性はそれを見ると、安堵したように息を吐き、そしてすぐに表情を曇らせた。
「ああ……これがないと、あの人が帰ってきた時に……また……」
彼女はスマホを握りしめたが、その手には力が入っていなかった。
相沢は、規定通りに事務を進めるべきだった。
だが、カウンターの下にある「小瓶」に手が伸びない。
(これを返せば、どうなる?)
この強烈な「殺意」を彼女に戻せば、彼女は帰宅後、包丁を握るかもしれない。
あるいは、寝ている夫の首を絞めるかもしれない。
忘れ物を返すことで、殺人が起きる。
それは「遺失物係」の仕事と言えるのだろうか。
「お客様」
相沢は珍しく、業務外の言葉を口にした。
「失礼ですが、これを、持ち帰る必要はありますか?」
「え?」
「スマートフォンはお返しします。ですが……もう一つのお忘れ物は、ここで処分することも可能です」
相沢は小瓶をカウンターに置いた。
冷気が広がる。女性の視線が、その青白い渦に釘付けになる。
「それは、非常に危険なものです。あなたが抱えきれず、こぼれ落ちてしまったほどの『殺意』です。これを持ち帰れば、あなたは一線を越えてしまうかもしれない」
相沢の忠告は、半分は彼女のためであり、半分は彼自身の良心のためだった。
しかし、女性は小瓶を見つめたまま、静かに首を横に振った。
「……いいえ、返してください」
「ですが」
「それは『殺意』ではありません」
女性の声から、怯えが消え始めていた。
「それは、私が生きるために必要なものです」
彼女は躊躇なく、その凍てつく小瓶に手を伸ばした。
相沢が止める間もなかった。
彼女の指が、見えない冷気に触れる。
キィン、と高い音が相沢の脳内で鳴った。
***
《 女性の感覚 》
冷たい。
けれど、それは震えるような寒さではない。
熱した鉄を水に突っ込んだ時のような、硬質化の感覚だ。
夫の暴力。罵倒。子供への威嚇。
「私が我慢すればいい」と自分を殺してきた日々。
けれど、昨日、夫の手が子供に向いた瞬間、彼女の中で何かが弾けた。
恐怖が裏返り、氷のような決意に変わったのだ。
このままではいけない。
刺し殺すのではない。
社会的に、法的に、物理的に、彼との縁を「断ち切る」。
そのために戦うという、退路を断った意志。
彼女の中に流れ込んだ冷気は、背骨を貫き、折れそうだった心を鋼のように補強した。
それは相手を殺すための刃ではなく、自分と子供を守るための「盾」だったのだ。
***
女性が顔を上げた。
その瞳には、もう「被害者」の弱々しさなど微塵もなかった。
背筋が伸び、纏っている空気が一変していた。
「これは『覚悟』です」
彼女は相沢を真っ直ぐに見据えて言った。
「夫という恐怖を、私の人生から切り離すための、メスです」
相沢は言葉を失った。
手袋越しに感じていた「刺すような痛み」は、彼女にとっては「自分を支える強さ」だったのだ。
感情の成分分析など、所詮は他人の解釈に過ぎない。
その使い道を決めるのは、持ち主だけなのだ。
「……失礼いたしました」
相沢は深く頭を下げた。
「お気をつけて」
「ええ。戦ってきます」
女性は割れたスマートフォンをバッグにしまい、踵を返した。
その足取りは、カツ、カツと力強く床を鳴らし、迷いなく出口へと向かっていく。
彼女はもう、二度と暴力に屈しないだろう。
自動ドアが閉まる。
相沢は、冷え切った自分の指先をさすった。
小瓶がなくなっても、指先に残った冷たさはなかなか消えそうになかった。
(……覚悟、か)
相沢は自身の胸に手を当てる。
彼には、そこまでの熱量も、そこまでの冷徹な意志もない。
ただ、右から左へ、感情を流しているだけだ。
「成分分析は難しいな」
彼は小さく呟き、冷めたコーヒーを一口すすった。
苦味が、少しだけ彼の感覚を現実に引き戻した。
(第4話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

