「あの、主人の『感情』が、こちらに届いていませんでしょうか」
その女性の第一声を聞いたとき、相沢は万年筆を止めて顔を上げた。
四十代半ばと思われるその主婦は、切羽詰まった表情でカウンターにしがみついていた。
相沢は一瞬、彼女が自分と同類の「能力者」なのかと警戒した。
だが、すぐに違うと判断する。彼女の瞳には、見えないものを見る光はない。ただ、夫の異変を案じるあまり、藁にもすがる思いでこの「不思議な噂のあるセンター」を訪ねてきただけなのだろう。
「詳しい事情をお聞かせ願えますか」
相沢が促すと、女性――真智子(まちこ)は、堰を切ったように話し始めた。
先日、夫の趣味であるプラモデルのコレクションを、全て捨てたのだという。
「だって、もう何年も作らずに箱が積み上がっているだけで、部屋を占領して邪魔だったんです。埃もたまりますし」
真智子は自分の正当性を疑っていなかった。
「主人も、帰ってきたら怒るかと思ったんですが……違ったんです。『ああ、ちょうど捨てようと思っていたんだ。片付けてくれてありがとう』って、言ってくれたんです」
それなら円満解決ではないか。普通の相談窓口ならそう返すだろう。
だが、相沢は眉一つ動かさずに先を促した。
「それで?」
「それから、夫がおかしいんです」
真智子の声が震え始めた。
「怒らないどころか、笑うことも、悲しむこともなくなって。口数が減って、ただ仕事に行って帰ってきて、寝るだけ。まるで……中身のない人形みたいになってしまって」
相沢は、心の中で小さく息を吐いた。
よくある話だ。「たかがオモチャ」と断じる側と、「それは自分の人生そのものだ」と感じる側。
その価値観の断絶が、取り返しのつかない悲劇を生むことがある。
「奥様。私は医者ではありませんが、探し物を見つけることならできます」
相沢は淡々と告げた。
「後日、旦那様をご同行の上、もう一度お越しください」
***
三日後。
真智子に連れられて、夫の隆博(たかひろ)がやってきた。
痩せ型の、温和そうな男性だった。
「いやー、ご迷惑をおかけしてすみません。妻が、どうしてもと言うもので」
隆博は穏やかに微笑んで頭を下げた。
その笑顔を見た瞬間、相沢の背筋に冷たいものが走った。
(……これは、ひどいな)
隆博の胸のあたりには、心臓がない。
いや、物理的にはあるのだろうが、精神的な意味での「核」がごっそりと抉り取られている。
そこには、空虚な風穴が開いており、ヒューヒューと寒々しい風が吹き抜けているようだった。
これは「感情を失くした」レベルではない。「心が壊死している」状態に近い。
相沢は、隆博が通勤に使っている国分寺駅~吉祥寺駅の保管データを検索し、すでに目星をつけていた「箱」を棚から取り出した。
「お客様。先日、駅のゴミ箱付近で、これを落とされませんでしたか」
相沢がカウンターに置いたのは、小さな金属片だった。
それは、模型用ニッパーの、折れた刃先だ。
それも、安物ではない。模型愛好家が使う、極めて薄く、切れ味の鋭い高級品だ。
隆博はそれを見ても、表情を変えなかった。
「ああ。そういえば、最後にポケットに残っていたそれを、捨てたような気がします。もう、作るものもありませんから」
あまりにも平坦な声。
自分の相棒だった道具への未練など、微塵も感じられない。
相沢は、その横に、黒いアクリルケースを置いた。
中に入っているのは、どす黒く凝固した、コールタールのような粘度のある液体だ。
相沢の手袋越しに伝わる感覚は、『絶対零度』。
触れるだけで指先の感覚が麻痺し、魂が凍りつくような冷たさ。
『拾得日時:〇月×日 午後六時頃』
『拾得場所:国分寺駅 改札内コンコース』
『品名:感情(破壊型)』
『成分:諦念、絶望、および自己への殺意』
怒りではない。
「自分を構成していた世界」を、他ならぬ家族に否定され、破壊されたことによる、静かなる魂の自殺。
彼は怒る気力すら捨てて、自分の心を殺すことで、均衡を保とうとしたのだ。
相沢は、その「黒い塊」を真智子に見せた。
「奥様。これが、旦那様が捨てた『心』です」
「心……?」
「これを戻せば、彼は元に戻るでしょう。ですが」
相沢は冷徹に告げた。
「彼はもう、穏やかで『都合の良い』夫ではいられなくなります。あなたを憎むかもしれない。一生許さないかもしれない。……それでも、返しますか?」
真智子は息を呑んだ。隣にいる夫を見る。
夫は、ただニコニコと、焦点の合わない目で虚空を見つめている。
「あなた……」
呼びかけても、反応はない。
そこにいるのは、夫の形をした、便利な同居人でしかない。
「……返してください」
真智子は泣き崩れるように言った。
「あんなふうに笑うあの人は、嫌です。私、取り返しのつかないことを……」
相沢は頷き、ケースの蓋を開けた。
「旦那様。どうぞ」
隆博は、言われるがままに、その黒いタールに手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、隆博の笑顔が凍りついた。
ピキ、ピキ、とガラスが割れるような音が、彼の中だけで響く。
***
《 隆博の感覚 》
自分の部屋。積み上げられた箱。色とりどりの塗料の匂い。
徹夜して磨き上げたパーツの艶。完成した時の高揚感。
仕事で嫌なことがあっても、あの部屋に入れば「自分」に戻れた。
あれはオモチャじゃない。
四十五年間の、僕の人生の証だ。
それを、全部。
「ゴミ」だと言って、捨てられた。
「ゴミ」だと言って…….。
***
「……ああ、あああああ……」
隆博の口から、獣のような呻き声が漏れた。
膝から崩れ落ち、カウンターに額を打ち付ける。
「僕の……F-15が……限定のザクが……」
「ごめんなさい、あなた、ごめんなさい」
謝る妻の声など、耳に入っていないようだった。
「あれは、僕の時間だったんだ! 僕が生きた時間だったんだぞ……!」
隆博は叫んだ。
穏やかだった彼が、初めて人前で見せた激情。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、彼は子供のように慟哭した。
その姿は痛々しかったが、先ほどの「抜け殻」よりは、遥かに人間らしくはあった。
***
十分ほど経っただろうか。
隆博はようやく泣き止み、荒い息を整えて立ち上がった。
その目は赤く腫れ上がっていたが、瞳の奥には暗く重い光が宿っていた。
彼は震える手で、折れたニッパーの刃先を拾い上げ、丁寧にハンカチに包んだ。
「……帰ろう」
短く言い捨てると、隆博は真智子を見ようともせず、出口へと歩き出した。
「あなた、待って」
真智子が慌てて追いかけるが、隆博は手を振り払った。
その拒絶は、二人の間に深い溝ができたことを明確に物語っていた。
プラモデルは買い直せても、壊れた信頼は、そう簡単には直らない。
自動ドアが閉まる。
二人の重苦しい空気が残されたセンターで、相沢は静かに記録をつけた。
『返却完了』
後味が悪いと言えば、悪い結末だ。
だが、相沢は日報の備考欄にこう書き加えた。
『痛みなくして、再生なし』
怒ることも、悲しむこともできない虚無よりは、胸が張り裂けるような痛みの方が、生きている証拠だ。
相沢は、ふと自分の胸を強く握りしめた。
痛みはあるか?
熱さはあるか?
……ない。
相変わらず、彼の胸の奥は、凪いだ水面のように静まり返っている。
「……羨ましいな」
相沢は誰にも聞こえない声で呟いた。
絶望できるほどの情熱を持っていたあの男が、彼には少しだけ、眩しく見えた。
(第6話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

