連載小説『感情の忘れ物』 第5話 ~捨てられた情熱の模型~

「あの、主人の『感情』が、こちらに届いていませんでしょうか」

その女性の第一声を聞いたとき、相沢は万年筆を止めて顔を上げた。

四十代半ばと思われるその主婦は、切羽詰まった表情でカウンターにしがみついていた。

相沢は一瞬、彼女が自分と同類の「能力者」なのかと警戒した。

だが、すぐに違うと判断する。彼女の瞳には、見えないものを見る光はない。ただ、夫の異変を案じるあまり、藁にもすがる思いでこの「不思議な噂のあるセンター」を訪ねてきただけなのだろう。

「詳しい事情をお聞かせ願えますか」

相沢が促すと、女性――真智子(まちこ)は、堰を切ったように話し始めた。

先日、夫の趣味であるプラモデルのコレクションを、全て捨てたのだという。

「だって、もう何年も作らずに箱が積み上がっているだけで、部屋を占領して邪魔だったんです。埃もたまりますし」

真智子は自分の正当性を疑っていなかった。

「主人も、帰ってきたら怒るかと思ったんですが……違ったんです。『ああ、ちょうど捨てようと思っていたんだ。片付けてくれてありがとう』って、言ってくれたんです」

それなら円満解決ではないか。普通の相談窓口ならそう返すだろう。

だが、相沢は眉一つ動かさずに先を促した。

「それで?」

「それから、夫がおかしいんです」

真智子の声が震え始めた。

「怒らないどころか、笑うことも、悲しむこともなくなって。口数が減って、ただ仕事に行って帰ってきて、寝るだけ。まるで……中身のない人形みたいになってしまって」

相沢は、心の中で小さく息を吐いた。

よくある話だ。「たかがオモチャ」と断じる側と、「それは自分の人生そのものだ」と感じる側。

その価値観の断絶が、取り返しのつかない悲劇を生むことがある。

「奥様。私は医者ではありませんが、探し物を見つけることならできます」

相沢は淡々と告げた。

「後日、旦那様をご同行の上、もう一度お越しください」

***


三日後。

真智子に連れられて、夫の隆博(たかひろ)がやってきた。

痩せ型の、温和そうな男性だった。

「いやー、ご迷惑をおかけしてすみません。妻が、どうしてもと言うもので」

隆博は穏やかに微笑んで頭を下げた。

その笑顔を見た瞬間、相沢の背筋に冷たいものが走った。

……これは、ひどいな

隆博の胸のあたりには、心臓がない。

いや、物理的にはあるのだろうが、精神的な意味での「核」がごっそりと抉り取られている。

そこには、空虚な風穴が開いており、ヒューヒューと寒々しい風が吹き抜けているようだった。

これは「感情を失くした」レベルではない。「心が壊死している」状態に近い。

相沢は、隆博が通勤に使っている国分寺駅~吉祥寺駅の保管データを検索し、すでに目星をつけていた「箱」を棚から取り出した。

「お客様。先日、駅のゴミ箱付近で、これを落とされませんでしたか」

相沢がカウンターに置いたのは、小さな金属片だった。

それは、模型用ニッパーの、折れた刃先だ。

それも、安物ではない。模型愛好家が使う、極めて薄く、切れ味の鋭い高級品だ。

隆博はそれを見ても、表情を変えなかった。

「ああ。そういえば、最後にポケットに残っていたそれを、捨てたような気がします。もう、作るものもありませんから」

あまりにも平坦な声。

自分の相棒だった道具への未練など、微塵も感じられない。

相沢は、その横に、黒いアクリルケースを置いた。

中に入っているのは、どす黒く凝固した、コールタールのような粘度のある液体だ。

相沢の手袋越しに伝わる感覚は、『絶対零度』。

触れるだけで指先の感覚が麻痺し、魂が凍りつくような冷たさ。

『拾得日時:〇月×日 午後六時頃』
『拾得場所:国分寺駅 改札内コンコース』
『品名:感情(破壊型)』
『成分:諦念、絶望、および自己への殺意』

怒りではない。

「自分を構成していた世界」を、他ならぬ家族に否定され、破壊されたことによる、静かなる魂の自殺。

彼は怒る気力すら捨てて、自分の心を殺すことで、均衡を保とうとしたのだ。

相沢は、その「黒い塊」を真智子に見せた。

「奥様。これが、旦那様が捨てた『心』です」

「心……?」

「これを戻せば、彼は元に戻るでしょう。ですが」

相沢は冷徹に告げた。

「彼はもう、穏やかで『都合の良い』夫ではいられなくなります。あなたを憎むかもしれない。一生許さないかもしれない。……それでも、返しますか?」

真智子は息を呑んだ。隣にいる夫を見る。

夫は、ただニコニコと、焦点の合わない目で虚空を見つめている。

「あなた……」

呼びかけても、反応はない。

そこにいるのは、夫の形をした、便利な同居人でしかない。

「……返してください」

真智子は泣き崩れるように言った。

「あんなふうに笑うあの人は、嫌です。私、取り返しのつかないことを……」

相沢は頷き、ケースの蓋を開けた。

「旦那様。どうぞ」

隆博は、言われるがままに、その黒いタールに手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、隆博の笑顔が凍りついた。

ピキ、ピキ、とガラスが割れるような音が、彼の中だけで響く。

***


《 隆博の感覚 》

自分の部屋。積み上げられた箱。色とりどりの塗料の匂い。

徹夜して磨き上げたパーツの艶。完成した時の高揚感。

仕事で嫌なことがあっても、あの部屋に入れば「自分」に戻れた。

あれはオモチャじゃない。

四十五年間の、僕の人生の証だ。

それを、全部。

「ゴミ」だと言って、捨てられた。

「ゴミ」だと言って…….。

***


「……ああ、あああああ……」

隆博の口から、獣のような呻き声が漏れた。

膝から崩れ落ち、カウンターに額を打ち付ける。

「僕の……F-15が……限定のザクが……」

「ごめんなさい、あなた、ごめんなさい」

謝る妻の声など、耳に入っていないようだった。

「あれは、僕の時間だったんだ! 僕が生きた時間だったんだぞ……!」

隆博は叫んだ。

穏やかだった彼が、初めて人前で見せた激情。

涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして、彼は子供のように慟哭した。

その姿は痛々しかったが、先ほどの「抜け殻」よりは、遥かに人間らしくはあった。

***


十分ほど経っただろうか。

隆博はようやく泣き止み、荒い息を整えて立ち上がった。

その目は赤く腫れ上がっていたが、瞳の奥には暗く重い光が宿っていた。

彼は震える手で、折れたニッパーの刃先を拾い上げ、丁寧にハンカチに包んだ。

「……帰ろう」

短く言い捨てると、隆博は真智子を見ようともせず、出口へと歩き出した。

「あなた、待って」

真智子が慌てて追いかけるが、隆博は手を振り払った。

その拒絶は、二人の間に深い溝ができたことを明確に物語っていた。

プラモデルは買い直せても、壊れた信頼は、そう簡単には直らない。

自動ドアが閉まる。

二人の重苦しい空気が残されたセンターで、相沢は静かに記録をつけた。

『返却完了』

後味が悪いと言えば、悪い結末だ。

だが、相沢は日報の備考欄にこう書き加えた。

『痛みなくして、再生なし』

怒ることも、悲しむこともできない虚無よりは、胸が張り裂けるような痛みの方が、生きている証拠だ。

相沢は、ふと自分の胸を強く握りしめた。

痛みはあるか?

熱さはあるか?

……ない。

相変わらず、彼の胸の奥は、凪いだ水面のように静まり返っている。

「……羨ましいな」

相沢は誰にも聞こえない声で呟いた。

絶望できるほどの情熱を持っていたあの男が、彼には少しだけ、眩しく見えた。

(第6話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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