連載小説『感情の忘れ物』 第7話 ~嘘つきの仮面~

その「忘れ物」は、見るからに落ち着きがなかった。

アクリルケースの中で、ふわふわと浮遊している極彩色の球体。

赤、青、黄色、ピンク。毒々しいほどのネオンカラーがマーブル模様を描いている。

相沢が手袋越しに触れると、キュッ、キュッ、というゴムを擦り合わせたような感触が伝わってきた。

……軽いな

質量がまったくない。中身が空っぽだ。

薄い膜一枚で膨らんでいる風船のような、危うい脆さ。

爪を立てれば、パン! と弾けて消えてしまいそうだ。

『拾得日時:〇月×日 午後三時十分』
『拾得場所:中央・総武緩行線 下り(三鷹方面)3号車 座席』
『品名:感情(装飾型)』
『成分:虚栄心、ハッタリ、および過剰な自意識』

相沢は呆れたように息を吐いた。

通常、忘れ物として届く感情は、持ち主にとって重荷になったり、抱えきれなくなったりした「切実なもの」が多い。

だが、これはどうだ。

ただ大きく見せるためだけの、中身のない張りボテ。

こんなものを必死に探す人間がいるのだろうか。

***


「失礼するよ! ここに、私の魂の欠片が届いていないだろうか!」

自動ドアが開き、よく通るバリトンボイスが響き渡った。

入ってきたのは、派手なスカーフを巻き、サングラスをかけた男だった。

三十代だろうか。下北沢の小劇場街で見かけそうな、典型的な「売れない役者」の風体だ。

しかし、その声の大きさとは裏腹に、彼の背中は丸まり、サングラスの奥の視線はオドオドと泳いでいる。

「……お芝居の台本なら、届いております」

相沢は、使い込まれてボロボロになった台本をカウンターに出した。

表紙にはマジックで大きく『主役』と書き殴られている。

「おお! これだ、これだよ! マイ・バイブル!」

男は台本に飛びついたが、すぐに眉を下げて相沢を見た。

「だ、だが、これだけかね? 他にこう、もっとキラキラした、オーラのようなものは……」

相沢は、男の顔色を観察した。

彼からは「覇気」が消え失せている。

普段は自信満々に振る舞っているのだろうが、今は舞台袖で出番を待つ初心者のように萎縮している。

「お客様。もう一つ、お忘れ物がございます。」

相沢は、極彩色の風船が入ったケースを出した。

「……こちらです。お確かめください。」

男はサングラスをずらし、透明なアクリルケースを食い入るように見つめた。

「そうだ。これだ……私の『才能』だ」

「いいえ」

相沢は冷淡に訂正した。

「成分分析の結果、これは『虚栄心』です。いわゆるハッタリです」

男が言葉に詰まる。

相沢は続けた。

「中身は空っぽです。実力も、根拠もない。ただ自分を大きく見せるためだけの『嘘』の塊です。……これを返して、何になるのですか? ありのままの自分で生きた方が、楽ではありませんか?」

それは、相沢なりの親切心だった。

虚勢を張って生きるのは疲れる。この男は、それを落としたことで、皮肉にも等身大の自分に戻れたのだから。

しかし、男は首を横に振った。

「ノン、ノン。君は分かっていないな、駅員さん」

男は、震える手でケースに触れようとした。

「中身が空っぽ? 上等じゃないか。空っぽだからこそ、そこに何でも詰め込めるんだ」

「……どういう意味ですか?」

「俺はね、天才じゃないんだ。臆病で、小心者で、つまらない男なんだよ」

男は自嘲気味に笑った。

「だから、嘘をつくんだ。『俺は天才だ』『俺はスターだ』って。 安っぽい鉄屑みたいな自分に、ハッタリという名の金メッキを何層にも塗り重ねて、その剥がれ落ちそうな薄い輝きを身に纏うんだよ」

男の指が、ケースに触れる。

「一千回、嘘をつけば……それはいつか、本当の『俺』になる!」

***


《 男の感覚 》

萎んでいた心臓に、一気に空気が送り込まれる。

血管の中を、ネオンカラーの血が駆け巡る。

根拠なんていらない。

俺は誰だ? 俺はこの舞台の支配者だ。

観客の視線を独り占めにする、選ばれた人間だ。

背筋が伸びる。顎が上がる。

視界が高くなり、世界の解像度が上がる。

怖いものなんてない。

なぜなら、俺は今、最強の「役」を演じているのだから!

***


バッ! と男が顔を上げた。

先ほどまでの、おどおどした小市民は消え失せていた。

彼はカウンターに手をつき、サングラスを外して、相沢に至近距離でウインクを飛ばした。

「感謝するよ、迷える子羊の導き手(ガイド)よ!」

声のトーンが一段階上がり、響き渡る。

「おかげで、今夜の舞台も最高のものになりそうだ。支配人が待ってるんでね、これにてドロンさせていただく!」

男は台本をひったくるように持ち、マントも着ていないのにマントを翻すような仕草で身を翻した。

「アデュー!」

カツン、カツンと、リズムカルな足音を残して、男は風のように去っていった。

それは滑稽なほど芝居がかった姿だったが、そこには不思議と人を惹きつける「輝き」があった。

***


相沢は、男が去った後の空間を呆然と見つめていた。

「……嘘を、本当にする、か」

虚栄心。ハッタリ。

一般的にはネガティブな感情とされるそれらを、男は生きるための燃料に変えていた。

自分を騙し、世界を騙し、その嘘を貫き通すことで、彼は「役者」という真実を生きている。

相沢は、手袋をはめた両手に目を落とした。

そして、無意識に自分の頬に触れた。

表情のない、能面のような顔。

自分もまた、嘘をついているのではないか?

「自分は何も感じない」「ただの係員だ」という仮面を被り、平気なフリをして、自分自身すらも騙しているのではないか。

あの男と自分で、何が違う?

男は「前に進むため」に仮面を被った。

自分は「立ち止まるため」に仮面を被っている。

カタッ。

棚の奥で、乾いた音がした。

分類不能品」の透明な欠片たちが、一つだけ、コトリと位置を変えたような音だった。

相沢は振り返った。

透明な欠片たちは、相変わらず静かだ。

だが、その透明さが、今は少しだけ空々しく見えた。

中身がないのは、あの風船ではなく、自分の方なのかもしれない。

相沢はゆっくりと手袋を直し、冷え切ったカウンターに戻った。

「……いい演技でしたよ」

誰にも届かない称賛を呟く声は、少しだけ掠れていた。

(第8話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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