第一章 ツノなき鬼の子
むかしむかし、あるところに、黒い雲に覆われた「鬼ヶ島」という場所がありました。
そこは人間たちから恐れられる鬼たちの住処でした。けれど、そこに住む鬼たちにも、日々の暮らしがあり、家族の営みがありました。
ある夜のこと、一組の鬼の夫婦にかわいい赤ちゃんが産まれました。しかし、産声を聞いた夫婦の顔色は、喜びから一転して真っ青になりました。
赤ちゃんの頭には、鬼の証である「ツノ」が生えていなかったのです。
「ああ、なんてことでしょう……」
「このままでは、この子は村の掟で『忌み子』として処分されてしまう…」
鬼の社会において、ツノのない者は弱き者、一族の恥として命を奪われる運命にありました。
夫婦は悩み、苦しみ、そして決断しました。
真夜中、夫婦は誰にも見つからないよう、そっと赤ちゃんを抱いて川のほとりへと向かいました。そこには、あらかじめ用意しておいた大きな桃の形をした小舟がありました。
「ごめんよ、ごめんよ」
お母さんの鬼は、涙で頬を濡らしながら赤ちゃんを桃の中に入れました。
お父さんの鬼は、自分のツノの先を少しだけ欠き割り、それを紐に通して首飾りを作ると、赤ちゃんの首にかけました。
「どうか、人間の世界で生きておくれ。お前は、誰よりも幸せになるんですよ」
大きな桃は、どんぶらこ、どんぶらこ。
暗い川を流れ、海を越え、やがて人間の住む国へと流れ着きました。
第二章 人間の光
ある日のことです。川へ洗濯に来ていたおばあさんは、川上から流れてきた大きな桃を拾い上げました。
家に持ち帰り、おじいさんと二人でその桃を割ると、中から元気な男の子が飛び出してきました。
「おやまあ! なんて元気な子でしょう」
「これは天からの授かりものに違いない」
二人はその子を「桃太郎」と名付けました。桃太郎の首には奇妙な形の石の首飾りがかかっていましたが、二人はそれをお守りだろうと思い、そのままにしておきました。
桃太郎は、おじいさんとおばあさんの溢れんばかりの愛情を受けて育ちました。
ご飯をたくさん食べ、野山を駆け回り、誰にも負けないくらい力持ちで、そして誰よりも優しい心を持つ少年に成長しました。彼の中に流れる鬼の血は、強靭な体として現れましたが、その心は純粋な人間そのものでした。
ある日、桃太郎は村の人々が噂話をしているのを耳にしました。
「最近、鬼ヶ島の鬼たちが悪さをして困るねぇ」
「宝物を奪ったり、畑を荒らったり……怖いものだよ」
桃太郎の正義感が燃え上がりました。
「おじいさん、おばあさん。僕が鬼ヶ島へ行って、悪い鬼を退治してきます!」
老夫婦は心配しましたが、桃太郎の決意は固いものでした。おばあさんは、心を込めて作った「きびだんご」を腰に結んであげました。
「気をつけてな、桃太郎」
「必ず無事で帰ってくるんですよ」
旅の途中、桃太郎の強さと優しさに惹かれ、犬、猿、キジが仲間になりました。
「桃太郎さんについていきます!」
頼もしい仲間を得て、一行はいよいよ鬼ヶ島へと上陸しました。
第三章 再会と真実
鬼ヶ島は、酒盛りの真っ最中でした。
「やい、悪さをする鬼ども! 僕が成敗してくれる!」
桃太郎が声を上げると、激しい戦いが始まりました。犬は噛みつき、猿はひっかき、キジは空から突っつきます。そして桃太郎の刀が光ります。
お酒に酔っていた鬼たちは次々となぎ倒され、逃げ惑いました。
圧倒的な強さで鬼たちを倒し、最後に桃太郎がたどり着いたのは、屋敷の奥でした。
そこには、震えながら身を寄せ合う、年老いた一組の鬼の夫婦がいました。
桃太郎は刀を突きつけました。
「覚悟しろ、鬼の親玉め!」
しかし、老夫婦は抵抗しませんでした。それどころか、桃太郎の顔を食い入るように見つめ、老いた目はみるみるうちに涙で溢れ出したのです。
「おお……」
「まさか、本当に……」
二人は武器を捨て、嬉しそうに泣いています。
桃太郎は困惑しました。命乞いをするわけでもなく、怒るわけでもない。ただ、愛おしそうに自分を見ているのですから。
「な、なんだ。なぜ戦わない! なぜ笑っているんだ!」
老女の鬼が、震える声で言いました。
「ツノの無い、愛しい我が子よ。立派になりましたね……」
桃太郎は耳を疑いました。
「……なに?」
「あなたが生まれたとき、ツノの無いお前を人間の村に逃がしたのは、実の親である私たちなのです」
時が止まったようでした。
桃太郎は後ずさりし、激しく首を横に振りました。
「うそだ! 僕は人間だ! 優しいおじいさんとおばあさんに育てられたんだ! 人を騙す悪い鬼め、成敗してやる!!」
桃太郎が刀を振り上げたその時、老爺の鬼が静かに言いました。
「お前の首にかけてあるその首飾りの石は……私のツノの欠片だ。合わせてみるがいい」
老爺は頭を下げ、自分の折れたツノを差し出しました。
桃太郎の手が震えます。首からずっとさげていた、あのお守りの石。
彼はそれを外し、恐る恐る老爺のツノの先にあてがいました。
――カチリ。
まるで吸い寄せられるように、石はツノの断面とぴったり一致しました。
一分の隙間もなく繋がったその線は、逃れようのない血の繋がりを証明していました。
「あ……ああ……」
桃太郎の手から石が滑り落ちました。
足元の力が抜け、その場に膝をついてしまいます。
自分が退治しようとしていた「悪」は、自分を生かし、守ろうとした「親」だったのです。
正義とは何か。自分は何者なのか。桃太郎の心は嵐のように乱れました。
第四章 最大の宝物
老爺の鬼は、優しく諭すように言いました。
「我が子よ。立派に育ったお前に倒されるのならば、本望だ。さあ、ひと思いにやるがいい。そして、私たちの首と宝を村に持ち帰り、英雄として幸せに生きておくれ」
それが、親としての最後の願いでした。自分たちの死をもって、息子の人間の世界での立場を守る。それが彼らの愛だったのです。
桃太郎は、床に落ちた刀を見つめました。
そして、ゆっくりと首を振りました。
「……できません」
彼は刀を拾い上げると、それをさやに納め、地面に置きました。
膝をついてうなだれる息子の肩を、老女の鬼が抱き寄せました。ごつごつとした鬼の手でしたが、そこにはおばあさんと同じ、温かいぬくもりがありました。
「あなたのいる場所はここではありません」
老女は桃太郎の背中を優しくさすりました。
「これからも人間の世界で生き、輝いてください。私たちは、遠くからあなたの幸せを祈っています」
言葉少なに、別れの時が来ました。
老夫婦は、島にある金銀財宝を荷車いっぱいに積んでくれました。それは、息子が人間社会で困らないための、最後の贈り物でした。
「……ありがとう。お父さん、お母さん」
桃太郎は一度だけそう呟き、深く頭を下げました。
終章 愛しみを胸に
人間の村では、おじいさんとおばあさんが、今か今かと桃太郎の帰りを待っていました。
地平線のはるか彼方、夕焼けの中に桃太郎と仲間たちの影が見えると、村中が歓声に包まれました。
「桃太郎が帰ってきたぞ!」
「鬼退治をして、無事に戻ってきたぞ! お祝いだ!」
村人たちは、荷車に積まれた宝物を見て、桃太郎の強さを称えました。
おじいさんとおばあさんは、涙を流して桃太郎を抱きしめました。
「よくぞ無事で……」
桃太郎は、いつものように屈託のない笑顔を見せました。
「ただいま! おじいさん、おばあさん」
桃太郎は、自分が鬼の子であったことは誰にも言いませんでした。
犬、猿、キジも、何も語りませんでした。
真実は、彼の胸の奥深くにしまわれました。
彼はこれからも、人間の世界で生きていきます。人間として、おじいさんとおばあさんの子供として。
しかし、彼の胸には、金銀財宝よりも尊い、鬼の両親からもらった最大の宝物が輝いていました。
それは、種族を超え、命を懸けて注がれた「愛しみ」という名の光でした。
(おわり)