連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第1話 ~新宿のノイズと捕食者のライター~

「……うるせえ街だ、クソが」

俺は誰に聞かせるでもなく毒づいて、首にかけていたヘッドホンを装着した。

スイッチを入れる。

『ノイズキャンセリング、オン』

電子的なアナウンスと共に、世界から音が消える。

だが、それでも完全に遮断できるわけじゃない。

ここは新宿駅、東口改札前。

一日の乗降客数、約三百五十万人。ギネス記録にも認定された、世界最大の「人間処理施設」だ。

朝のラッシュアワー。吐き気を催すほどの人口密度。

俺の視界には、行き交うゾンビどもの頭上に、漫画の吹き出しのようなノイズが重なり合って見えていた。

『眠い』『死にたい』『殺す』『愛してる』『金がない』『腹減った』……。

それらは文字ではない。

色と、形と、そして何より「不協和音」となって、俺の鼓膜を直接揺さぶってくる。

キーンというモスキート音。

黒板を爪で引っ掻くような高周波。

地響きのような重低音。

俺――須藤陸(すどう・りく)にとって、感情とは「騒音」以外の何物でもない。

俺はサングラスの位置を直し、ノイズの濁流を避けるようにして、地下への階段を早足で降りていった。

***


新宿駅東口地下、遺失物取扱センター。

一般客が立ち入るカウンターの奥に、その空間はある。

吉祥寺あたりにあるという木目調の綺麗なセンターとは大違いだ。

コンクリート打ちっぱなしの壁。天井を這う剥き出しの配管。

蛍光灯は一本切れかけてチカチカと点滅し、薄暗い倉庫のような雰囲気を醸し出している。

「……ったく、朝から元気だな、おい」

俺は倉庫のデスクに置かれた「それ」を見て、舌打ちをした。

今朝、清掃員がアルタ前の広場で回収してきた落とし物だ。

物理的な物体は、銀色の高級ライター。デュポン製で、表面には繊細な彫刻が施されている。

問題なのは、その横にへばりついている「オプション」の方だ。

紫色に発光する、ウニのようにトゲトゲした塊。

そいつは、俺の耳にだけ聞こえる音で『ギャギャギャギャ!』と喚き散らしながら、デスクの上で暴れ回っていた。

俺はロッカーから「厚手のゴム手袋」を取り出して装着し、さらに清掃用の長い「火箸(トング)」を手に取った。

直接触りたくもない。触れれば、この毒々しい感情が皮膚から侵入し、俺の精神を汚染するからだ。

「大人しくしろ。ここはゴミ捨て場じゃねえんだ」

俺はトングで紫のウニを乱暴に摘み上げた。

ジジジッ! と火花のような音がする。

抵抗するな、鬱陶しい。

俺はそれを防音ガラスのケースに叩き込み、手早く蓋をロックした。

ようやく、耳障りな金切り音がくぐもった音に変わる。

俺はゴム手袋を外してデスクに投げ出し、聞き取ったノイズの成分を業務端末に打ち込んだ。

『拾得日時:〇月×日 午前五時』
『拾得場所:新宿駅 東口広場』
『品名:感情(捕食型)』
『成分:支配欲、傲慢、およびプロ意識』

「……ホストか。面倒くせえ」

俺はブラックコーヒーを流し込んだ。

泥のように濃い苦味が、少しだけ頭痛を和らげてくれる気がした。

***


午後二時。

自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。

予想通り、歌舞伎町にいそうな派手なスーツの青年だ。髪は金色、指にはクロムハーツ。

だが、その挙動は外見とは裏腹に、捨てられた子犬のように震えていた。

「あ、あのぅ……すみません……お忙しいところ……」

蚊の鳴くような声。

男は周囲をキョロキョロと見回し、何度も頭を下げながらカウンターへ近づいてきた。

俺はヘッドホンを片耳だけずらして対応する。

「要件は?」

「あの、昨日、ライターを落としてしまって……。大事な商売道具なんです」

男――レイジという名のその客は、カウンターに手をついて懇願した。

「あれがないと、俺、仕事にならなくて……」

「仕事?」

「ホスト、です」

レイジは恥ずかしそうに俯いた。

「ライターをなくしてから、なんか調子が狂っちゃって。店に行っても、姫……あ、女性のお客様に、強く出られないんです」

レイジは震える手で顔を覆った。

「高いボトルを入れてもらうなんて申し訳ないとか、恋人のフリをするなんて詐欺だとか……そんなことばかり考えてしまって、接客中に吐いちゃって……」

なるほど。

今のこいつは「牙を抜かれた狼」というわけだ。

誠実で、気が弱く、良心的な青年。

人間としては、今の方がまともかもしれない。

だが、俺にとっては今のこいつから発せられる「ウジウジした弱音のノイズ」もまた、不快な雑音でしかなかった。

『申し訳ない』『怖い』『逃げたい』

湿った低周波が、俺の神経を逆撫でする。

さっさと返して、この場から追い払うに限る。

俺は奥から、例の防音ケースとライターを持ってきた。

カウンターに置くと、ケースの中の「紫のウニ」が、持ち主の気配を感じて『ギチギチ』と音を立てて活性化した。

「これだろ」

俺はトングで紫の塊をつまみ出し、ライターの上に雑に置いた。

「え……?」

レイジが怪訝な顔でライターを見つめる。

無理もない。
一般人の目には、そこにはライターがあるだけで、その上に乗っかっている「毒々しい塊」は見えていないのだから。

「……チッ。見えねえか。幸せな目をしてやがる」

俺は舌打ちをした。

言葉で説明するのは面倒だ。

この優柔不断な男に、さっさと現実を直視させて、このうるさいゴミを持ち帰らせるには、アレしかない。

「おい、手を出せ」

「え?」

「いいから出せ」

俺はゴム手袋を外した左手で、レイジの手首を乱暴に掴んだ。

「うわっ!?」

瞬間、俺とレイジの神経回路が強制的にパスを繋ぐ。

レイジの体内にある「迷い」や「怯え」といった湿ったノイズが、直接俺の脳内にドロリと流れ込んでくる。

「ぐ……っ、気持ち悪ぃな……」

俺は吐き気を堪えながら、レイジの視覚野に俺の感覚を同調(シンクロ)させた。

「よく見ろ。これがあんたの『中身』だ」

レイジの視界が歪む。

俺が共有させた感覚を通して、彼は初めて「それ」を見る。

バッッ!

虚空に、紫色に発光する無数の棘(トゲ)が浮かび上がった。

それはまるで深海の発光生物のように脈打ち、ライターに絡みついている。

「ひっ……!」

レイジが短い悲鳴を上げて後ずさろうとするが、俺は手を離さない。

「逃げんな。あんたのプライドだろ。支配欲、傲慢、他者を見下す優越感。……ずいぶんとトゲトゲしてやがる」

俺はそこまで言って、汚いものを捨てるようにパッと手を離した。

パスが切れる。

「はぁ、はぁ……」

レイジは腰を抜かしそうになりながら、自分の手首を押さえた。

もう共有は切れているが、一度網膜に焼き付いた「毒の残像」は消えないようだった。

レイジはゴクリと喉を鳴らし、震える視線をライターに向けた。

「そ、それを戻せば……俺はまた、あいつらを騙せるんでしょうか」

彼は迷っていた。

誠実な自分に戻ったことで、今まで自分がしてきたことの罪悪感に押しつぶされそうになっているのだ。

目の前にある「毒」を飲み込むべきか、このまま「弱いが善い人間」として生きるべきか。

「知らねえよ。そんな道徳の授業は他所でやれ」

俺はトングの先で、ライターをコツコツと叩いた。

「ただ、あんたはそれを『商売道具』にしてたんだろ。この毒々しいプライドと傲慢さで、飯を食ってたんだろ。……なら、持って帰れ。こっちはボランティアで預かってんじゃねえんだ。そのうるさいゴミがなくなれば、俺はそれでいい」

俺の言葉は、背中を押すような優しさではない。

ただの厄介払いだ。

だが、レイジにはそれで十分だったらしい。

彼は意を決したように息を呑み、震える手を伸ばした。

指先が、紫色の棘に触れる。

バチッ!

ショートしたような音が鳴り、紫の光が一瞬でレイジの胸へと吸い込まれた。

***


数秒の沈黙。

レイジが、ゆっくりと顔を上げた。

おどおどと泳いでいた視線が、一点に定まる。

瞳の奥から「怯え」が消え、代わりに冷徹でギラギラとした、捕食者の光が宿る。

彼は前髪をかき上げると、口角だけでニヤリと笑った。

「……サンキュー、お兄さん。助かったわ」

声のトーンが半オクターブ下がり、腹の座った響きに変わっていた。

さっきまでの腰の低さはどこへやら。

彼は俺に一瞥もくれず、ライターをポケットにねじ込むと、肩で風を切って歩き出した。

「よし、今夜は搾り取るか」

ポツリと漏らした言葉は、絶対的な自信に満ちていた。

自動ドアが開く。

レイジは新宿の雑踏の中へ、まるで自分の庭に帰るように消えていった。

俺はトングを放り出し、椅子に深く背中を預けた。

「二度と落とすなよ。耳障りなんだ」

レイジが出て行った後のセンターには、ようやく静寂が戻っていた。

後味の悪さ?

そんなものはない。

俺にあるのは、不快なノイズ源が一つ減ったことへの安堵だけだ。

***


ピロリン。

業務端末のチャット通知音が、静寂を破った。

俺は舌打ちをして画面を開く。

送信元は、吉祥寺センターの『相沢』という男だ。

会ったことはないが、噂では仏のように穏やかで優秀な係員らしい。

『吉祥寺センター(相沢):お疲れ様です。先日そちらに届いたと思われる「ピンク色の封筒(押し花入り)」ですが、保管されていませんか? お客様が大変気落ちされておりまして、可能であれば早急に移送をお願いします』

俺は画面を見て、鼻で笑った。

俺の脳裏には、昨日ゴミ箱同然の「保留ボックス」へ放り込んだ封筒が浮かぶ。

確かにそれは、開封するまでもなく、耳障りなほど甘酸っぱい高周波を放っていた。

あれは「初恋」の音だ。

キラキラした、脳が溶けそうなピンク色のノイズ。

「……はんっ。たかが封筒一枚に『気落ち』だぁ? 吉祥寺は平和でいいこって」

こっちは、殺意だの傲慢だの、猛獣のような感情の相手で手一杯なんだよ。

そんな平和ボケした「おセンチ」な案件なんざ、知ったことか。

俺は『確認中』のスタンプだけ適当に返し、端末をパタンと閉じた。

「……クソが」

俺は再びヘッドホンを装着し、ノイズキャンセリングのスイッチを入れた。

新宿の喧騒を遮断して、深く目を閉じる。

俺の望みは、この世界の「音」がすべて消え失せること。

ただ、それだけだ。

(第2話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。