新宿の地下は、地上よりも空気が重い。
換気扇が唸りを上げて回っているが、染み付いた埃(ほこり)と、何百万人もの人間が落としていった欲望の残り香は、そう簡単には消えないらしい。
俺は眉間に皺(しわ)を寄せて、デスクの上にある「それ」を睨みつけていた。
物理的な物体は、鋭い鋲(びょう)が打ち込まれた黒い革のチョーカー。
ドン・キホーテあたりで売っていそうな、安っぽいパンクファッションのアイテムだ。
だが、俺を不快にさせているのは、それにへばりついている粘着質の感情の方だった。
蛍光ピンクと蛍光グリーンがマーブル状に混ざり合った、ドロドロのスライム。
そいつはチョーカーに絡みつきながら、甘ったるいエナジードリンクと腐った果実を煮詰めたような悪臭を放っている。
そして何より、音がひどい。
『テテテテ、テテテテ』
安っぽい電子音が高速でループする、破滅的なリズム。
聞いているだけで脳みそが溶け出しそうな、不快なハイテンションだ。
「……チッ。目がチカチカするんだよ」
俺は慣れた手つきでトングを使い、スライムごとチョーカーを持ち上げた。
スライムがネバネバと糸を引き、デスクにポタリと落ちて『ジュッ』と音を立てる。
もちろん、俺にしか聞こえない幻聴だ。
『品名:感情(中毒型)』
『成分:万能感、刹那的な快楽、および緩慢な自殺』
こんなもの、分析するまでもない。俺はいつもの定型文を端末に打ち込んだ。
この街の「広場」に溜まっている連中が、よく落としていくヤツだ。
***
深夜二時。
深夜帯の窓口対応が始まった頃、自動ドアが開いた。
「……あの」
入ってきたのは、派手な地雷系メイクをした少女だった。
年齢は十五、六といったところか。
黒いマスクに、オーバーサイズのパーカー。足元は厚底のブーツ。
いわゆる「トー横」界隈のキッズだ。
だが、その表情に覇気はない。メイクは涙で崩れ、パンダのようになっている。
彼女は寒さに震える野良猫のように、おずおずとカウンターに近づいてきた。
「チョーカー、届いてませんか。鋲がついた、黒いやつ……」
「名前は?」
「……エリ」
エリは、視線を合わせようとしない。
「あれがないと、私……無理なんです」
昨夜までは、あのチョーカー(=万能感)をつけて、広場の姫として君臨していたのだろう。
だが、魔法のアイテムを落とした今、彼女はただの「家に帰れない子供」に戻ってしまっている。
金がない。行く当てがない。大人が怖い。
そんな現実の恐怖が、彼女を震え上がらせていた。
俺にとっては、今のエリから発せられる「メソメソした泣き声のノイズ(恐怖)」も鬱陶しいが、チョーカーの「電子音ノイズ(快楽)」も同じくらい不快だ。
どっちもさっさと追い払いたい。
「あるぞ。さっさと持ってけ。ここにサイン」
俺は事務的に、例のチョーカーをカウンターに出した。
その瞬間、エリがビクリと肩を震わせ、後ずさった。
「あ……」
彼女は手を伸ばしかけて、引っ込める。
本能が察知したのだろう。
その黒い革の上に、毒々しいスライムが乗っかっていることを。
「……怖い」
エリが搾り出すように言った。
「それつけると、楽しいけど……自分が自分でなくなっちゃう気がして」
彼女の瞳が揺れている。
このまま毒を喰らってハイになるか、それとも素面のまま絶望的な夜を過ごすか。
「帰りたくない……でも、これ以上壊れるのも怖い……」
エリが泣き出しそうになる。
その葛藤のノイズが、俺のヘッドホンを突き抜けて突き刺さる。
「……グダグダ言ってんじゃねえ」
俺は面倒くさそうに溜息をつき、椅子から身を乗り出した。
子供の人生相談に乗る趣味はない。
俺はカウンター越しに、エリの手首を強引に掴んだ。
「ひっ!」
「いいから見ろ」
バチッ。
一瞬の感覚共有(シンクロ)。
俺の視覚野を、エリの網膜に強制接続する。
「な、に……これ……」
エリの目が大きく見開かれる。
彼女の視界の中で、チョーカーに絡みつくネオン色のスライムが、ボワリと発光した。
「見えたろ? それがあんたの『燃料』だ。それがないと、この街じゃ息ができねえんだろ」
俺はすぐに手を離した。
長く繋がっていると、こっちまで頭がおかしくなりそうだ。
エリは自分の手首をさすりながら、まじまじとチョーカーを見つめた。
吐き気を催すような悪臭。
けれど、それ以上に脳髄が痺れるような、強烈な「渇望」が彼女を襲う。
毒でもいい。偽物の万能感でもいい。
この寒くて、惨めで、誰にも必要とされない現実よりは、何倍もマシだ。
「……うん」
エリの瞳から、迷いが消えた。
「私、まだ帰りたくない」
彼女はチョーカーをひったくるように掴み、震える手で首に巻いた。
カチッ。
留め具がはまる音と共に、ヌルリとスライムが彼女の首筋へ浸透していく。
瞬間。
エリの瞳孔が開き、震えがピタリと止まる。
彼女は口角を吊り上げ、楽しげな笑顔を浮かべて、俺に向かってピースサインをした。
「あー、スッキリした! ありがとね、おっさん!」
声のトーンが跳ね上がっている。
彼女はもう、怯える子供ではない。
夜の街を徘徊する、無敵の妖精だ。
「じゃーねー!」
エリはスキップをするように軽い足取りで出口へ向かう。
だが、自動ドアが開く直前。
ふと、彼女が足を止めた。
背中を向けたまま、ボソリと呟く。
「……説教しない大人って、初めてだよ」
その声は、偽物の万能感に酔った「広場の姫」の声ではなく、一瞬だけ戻ってきた「エリ」本人の、静かで感謝のこもった声だった。
「じゃあね」
彼女は再びリズムを取りながら、ネオンが瞬く雑踏の中へ消えていった。
俺はトングを放り出し、冷めきった泥水のようなコーヒーを喉に流し込んだ。
「……説教するほど、他人に興味ねえよ」
口の中に広がるのは、いつも通りの不味い苦味だけだ。
だが、あの湿っぽい泣き声(ノイズ)が遠ざかったことだけは評価してやる。
破滅に向かうリズムだろうが何だろうが、俺の耳元で鳴らなきゃそれでいい。
***
さて、仕事に戻るか。
俺は次の伝票を手に取った。
これは返却ではなく「移送」の案件だ。
『吉祥寺駅 遺失物取扱センター 相沢殿』
宛先を見て、俺はまた舌打ちをする。
「……うわ、気持ち悪ッ。なんだこの音」
移送予定の段ボール箱の中には、薄汚れたウサギのぬいぐるみが一匹入っていた。
だが、問題なのはその中身だ。
真っ黒なタールのような「怨念」が染み付いており、俺の耳には『ウウウゥゥ……』という低い唸り声が、地底からの響きのように聞こえていた。
「勘弁しろよ……」
俺は不快感に顔を歪めながら、梱包材(プチプチ)のロールを引き出した。
こんな音を撒き散らされたら、運送屋が発狂する。普通の人間であってもだ。
俺はぬいぐるみをプチプチで二重、三重、いや十重巻きにした。
さらにガムテープでぐるぐる巻きにし、「取扱注意」「水濡れ厳禁」「天地無用」のシールを、隙間がないほどベタベタと貼る。
やがて、ぬいぐるみは元の形がわからないほどの「厳重なミイラ」になった。
「これなら音も漏れねえだろ。……よし、吉祥寺送りだ」
俺は厳重に封印された箱に伝票を貼り付けると、集荷コーナーのカゴへ放り投げた。
吉祥寺の相沢とかいう奴がこれを見てどう思うかなど、知ったことではない。
俺の仕事は、この場所からノイズを排除すること。
ただ、それだけだ。
(第3話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

