「うわ、最悪だ。湿度がすげえ」
俺はデスクの上に置かれた「それ」を見て、心底うんざりした声を上げた。
ヘッドホンのノイズキャンセリングを最大にしても、粘着質な音が脳に染みてくる。
まるで、耳元で濡れた唇を動かされているような不快感。
『……見テルヨ、見テルヨ、見テルヨ、見テルヨ……』
ウィスパーボイスの女の声が、壊れたレコードのように延々とループしている。
物理的な落とし物は、高倍率のオペラグラス(双眼鏡)。
観劇やバードウォッチングで使うような、本格的な代物だ。
だが、今のこいつは、そんな健全な用途で使われていた形跡はない。
真っ赤な蜘蛛の糸のような、粘り気のある物体が、オペラグラス全体に絡みついている。
その糸はデスクの天板にもベッタリとへばりつき、生き物のように蠢(うごめ)いていた。
『品名:感情(固着型)』
『成分:執着、渇望、および一方的な支配欲』
「ストーカーかよ。……気持ち悪ぃ」
俺はゴム手袋を嵌めた手の甲で、デスクの天板を払った。
赤い糸がビクリと反応し、俺の指に巻き付こうと鎌首をもたげる。
俺は慌てて手を引っ込めた。
こんな執念深い感情に触れたら、一週間は悪夢を見る羽目になる。
***
夕方。
自動ドアが開き、一人の女性が入ってきた。
「あの、オペラグラスが届いていませんか」
年齢は三十代半ばくらいだろうか。
地味な色のカーディガンに、黒縁の眼鏡。黒髪を後ろで一つに束ねている。
どこにでもいそうな、大人しくて礼儀正しそうな女性――恭子(きょうこ)。
「観劇の帰りに落としてしまって。……奮発して買った良いやつなんです」
彼女は困ったように眉を下げて微笑んだ。
だが、俺には見えていた。
彼女の背中から、無数の「赤い糸」が触手のように伸びているのを。
その糸は、カウンターの奥にあるオペラグラスを求めて、空中でクネクネとダンスを踊っている。
彼女が言った「観劇」という言葉には、舞台への健全な興奮など微塵もついていない。
ついているのは、もっとドロドロとした、飢えた獣のような気配だけだ。
俺は何も追求しない。
正義感なんてものは持ち合わせていないし、何よりこの気味の悪い音をさっさと止めたいだけだ。
「ありますよ。さっさと引き取ってください」
俺はトングでオペラグラスを摘み上げ、カウンターに置いた。
「ああ、よかった……」
恭子が頬を紅潮させ、オペラグラスに手を伸ばす。
「これがないと、彼が遠くて……」
彼? 役者のことか?
まあ、どうでもいい。
俺は早く終わらせるために、いつもの手順を踏むことにした。
「手を出して」
「え?」
「確認作業だ」
俺は恭子の手首を、ゴム手袋越しに掴んだ。
バチッ。
神経回路が接続される。
俺の脳内に、恭子の視界が強引に流れ込んでくる。
《共有された視界》
そこは、煌びやかな劇場のステージではなかった。
丸いレンズ越しに見えているのは、夜の闇に浮かぶ高層マンションの一室だ。
距離は数百メートルといったところか。
カーテンの隙間から、部屋の中がハッキリと見える。
ソファに座り、コーヒーを飲んでいる見知らぬ男性。
彼はリラックスした様子でテレビを見ている。
自分が、暗闇の中からこうして拡大されて「観察」されていることなど、露ほども知らずに。
『あ、コーヒー飲んでる。可愛い』
『今日は青いマグカップだ。昨日は白だったのに』
『誰と電話してるの? 笑ってる。私のこと考えてるのかな』
『私が見てること、気づいてるくせに。焦らしちゃって』
ドロドロとした歪んだ思考が、俺の脳を侵食する。
「うっ……」
俺は強烈な吐き気に襲われ、パッと手を離した。
「はぁ、はぁ……」
最悪だ。今までで一番、ねっとりと重い。
俺は恭子を睨みつけた。
「あんた、趣味が悪いな。……『観劇』ってのは、マンションの窓のことかよ」
図星を突かれた恭子は、しかし悪びれもしなかった。
眼鏡の奥の目が、ギラリと光る。
さっきまでの「大人しい女性」の仮面が剥がれ落ち、その下にある異常な執着心が露わになる。
「……愛してるから、見守ってるんです」
恭子はうっとりとした顔で言った。
「あの人も、孤独でしょう? 私の視線を感じて生活するほうが、彼だって寂しくなくて幸せでしょう?」
「……話にならねえな」
「返してください、私の目」
恭子はオペラグラスをひったくるように掴み、それを愛おしそうに頬ずりした。
赤い糸が、彼女の目とレンズを再び繋ぐ。
『……見テルヨ、見テルヨ』
ノイズが彼女の体内へ戻り、さらに音量を増して鳴り響く。
「ありがとうございます。……今夜は冷えるから、彼、風邪ひかないといいな」
恭子は満足げに微笑み、足早に出ていった。
その足取りは、愛する人に会いに行く乙女のようであり、獲物を狙う狩人のようでもあった。
「……愛だの恋だの、聞こえはいいが」
俺は誰もいないカウンターで呟いた。
「結局は『支配』だろうが」
ストーカーの粘着質なノイズが消えても、センターの中には気味の悪さが残ったままだった。
***
ジリリリリ……。
ひと段落したところで、デスクの電話が鳴った。
内線だ。俺は気怠げに受話器を取った。
「はい、新宿」
『お疲れ様です、吉祥寺センターの相沢です』
受話器の向こうから、穏やかで落ち着いた男の声がした。
「……あ? ああ、どうも」
先日、チャットでやり取りした「おセンチな係員」か。
『先ほど、そちらからの移送品が届きました。ウサギのぬいぐるみです』
「ああ、あの汚いウサギか。届いたならいいでしょ」
俺は電話を切ろうとした。
だが、相沢の声がそれを引き止めた。
『ええ。ただ、ちょっと気になりまして。……随分と、厳重な梱包でしたね』
相沢の声には、非難の色はない。ただ純粋な疑問のようだ。
『伝票には「ぬいぐるみ」とありましたが、中身はただの綿ですよね。破損の恐れもない。なのに、プチプチで十重巻きにされて、さらにガムテープで密封されていた』
俺はイラッとした。
こっちは親切心でやってやったのに、いちいち細かいツッコミを入れてきやがって。
あのウサギからは、地獄の底から響くような怨念の唸り声がしてたんだよ。
あんなもん、そのまま送ったら配送業者が事故るレベルだ。
「はあ? 当たり前でしょ」
俺はつい、本音を口走ってしまった。
「だってアレ、中身がダダ漏れで気持ち悪かったんで。音がうるさくて敵わなかったんですよ」
言った直後、俺は「あ」と思った。
……中身が漏れてる? 音がうるさい?
一般人には、ただの「汚れたぬいぐるみ」にしか見えないはずだ。
俺は慌てて誤魔化した。
「い、いや、綿がね! 中の綿が出てて、不潔だったから! そういう意味で!」
受話器の向こうで、一瞬の沈黙があった。
相沢は、驚くわけでも、変に思うわけでもなく、ただ静かに納得したような声を出した。
『……なるほど。中身が漏れていて、うるさかった。……ご配慮、痛み入ります』
その声色は、先ほどまでと変わらない、丁寧なものだった。
『おかげで、無事に処理できました。新宿には、耳の良い方がいらっしゃるようで頼もしいです』
「……はあ。どうも」
『では、また』
ガチャン。通話が切れた。
俺は受話器を持ったまま、首を傾げた。
「……なんだ今の。『耳が良い』? ……嫌味か?」
地獄耳で噂好き、とでも言いたかったのか?
変な奴だ。
吉祥寺の係員なんて、どうせ暇を持て余した平和ボケ野郎だろう。
俺は受話器を戻し、再びヘッドホンを装着した。
だが、俺は知らなかった。
電話の向こう、吉祥寺駅の薄暗いセンターで。
相沢が、届いたばかりの「怨念まみれのぬいぐるみ」を見つめながら、確信に満ちた笑みを浮かべていたことを。
(第4話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

