連載小説『感情の忘れ物2 新宿・須藤編』第5話 ~灰色の歯車と漏れ出す虚無~

「……クソ、また漏れてんのか。欠陥品がよ」

俺はふらつく足取りで、倉庫の奥にある「特別保管庫」へと向かった。

手には業務用のガムテープ。

分厚い鋼鉄の扉の隙間から、黒い煤(すす)のようなものがジワジワと染み出し、コンクリートの床を汚している。

昨日の「黒い霧」事件以来、この金庫は完全に鎮まっていない。

耳を澄まさなくても聞こえる。

ブゥゥゥゥン……

地底で巨大な発電機が回っているような、腹の底に響く重低音。

俺はヘッドホンのボリュームを上げながら、扉の隙間を目張りするように、何重にもガムテープを貼り重ねた。

これで四回目だ。

いくら塞いでも、内圧が高まると、どこからともなく漏れ出してくる。

まるで、新宿という街の膿(うみ)が、俺を嘲笑っているかのようだ。

俺は酸欠になった魚のように口で息をしながら、デスクに戻った。

***


デスクの上には、いつの間にか新しい届け物が置かれていた。

物理的な物体は、プラスチック製の社員証(IDカード)。

ネックストラップの部分が、引きちぎられたように切れている。

そして、それに付着している感情は――奇妙なことに「色」がなかった。

薄い灰色の霞(かすみ)が、カードの周囲をぼんやりと覆っているだけだ。

だが、俺が眉をひそめたのは、その「音」だ。

いつもなら鼓膜を突き破ってくるノイズが、そこにはない。

むしろ逆だ。

…………

その物体がある空間だけ、換気扇の音も、時計の秒針の音も、全てが吸い込まれて消滅している。

ブラックホールのような「完全な無音」。

近づくだけで、鼓膜が内側から吸い出されそうな、気持ちの悪い真空状態。

「……気持ち悪ぃ。うるさいよりマシだが、生きた心地がしねえ」

『品名:感情(摩耗型)』
『成分:思考停止、過剰適応、および個の滅却』

俺はこめかみを押さえた。

これは、昨日の「黒い霧」の予備軍だ。

完全にすり減って、感情というエネルギーさえ失った、灰色の残骸だ。

***


「……あの」

自動ドアが開いたことに、俺は気づかなかった。

気づけば、カウンターの前に一人の男が立っていた。

「社員証を、落としてしまいまして」

年齢は四十代くらい。ヨレたスーツを着た、痩せ型の男――佐藤。

その存在感は驚くほど希薄だった。

まるで背景と同化しているかのように、影が薄い。

顔色はコピー用紙のように白く、表情筋が死滅したように動かない。

彼は「感情を取り戻したい」という切実さすら持っていなかった。

ただ「それがないと会社のゲートが開かないから」という、システム上の理由だけでここに来ている。

ドンッ!!

佐藤がカウンターに近づいた瞬間、奥の金庫が内側から激しく叩かれたような音を立てた。

俺はビクリと肩を震わせた。

共鳴(レゾナンス)している。

金庫の中の「黒い霧(集団のストレス)」が、佐藤という「構成員(歯車)」を呼び寄せているのだ。

戻レ……戻レ……

金庫からの振動が、俺の骨を揺らす。

耳鳴りがキーンと跳ね上がり、視界が明滅する。

「……ありますよ」

俺は脂汗を流しながら、トングで社員証を摘み上げた。

早く渡して帰らせないと、金庫の中身が暴れ出す。

「ほらよ。あんたのだろ」

俺は、震える佐藤の手首を掴んだ。

バチッ。

灰色の世界が、俺の脳内に広がる。


《 共有された視界 》

そこは、窓のない巨大なオフィスだった。

地平線まで続く、無機質なグレーのデスクの列。

蛍光灯の白い光だけが、影のない世界を照らしている。

誰とも目を合わせない。会話もない。

聞こえるのは、無数の人間がキーボードを叩く『カタカタカタカタ……』という乾いた音だけ。

『申し訳ありません』

『修正します』

『承知しました』

『申し訳ありません』

感情のない定型文が、呪経のように脳内でループする。

痛みはない。怒りもない。悲しみもない。

ただ、自分がサンドペーパーで削られて、粉になって消えていく感覚だけがある。

これは「苦痛」ではない。

魂の「麻痺」だ。


「……ッ!」

俺は呻き声を上げて、手を離した。

この虚無感は、暴力的な殺意よりも質(タチ)が悪い。

生きながらにして死んでいる。

佐藤は、無表情のまま社員証を受け取った。

通常なら、感情が戻れば顔色が良くなったり、何らかの生気が戻るはずだ。

しかし、灰色の霧が佐藤の胸に戻った瞬間、彼の体は一層「灰色」にくすんで見えた。

さらに、金庫の隙間から漏れ出していた黒い煤が、床を這って佐藤の足元に絡みついたのが見えた。

「……ああ、ありがとうございます」

佐藤は深く礼をした。

「これでまた、戻れます」

その目は完全に死んでいた。

彼は、自分が「巨大なシステムの一部」であることを受け入れ、またその黒い霧の中へ溶けていくことを選んだのだ。

佐藤は、幽霊のように音もなく自動ドアを出て行った。

足元に絡みついた黒い影を引きずりながら。

***


佐藤が去った後も、センターの空気は重く淀んだままだ。

俺は激しい目眩に襲われ、その場に膝をついた。

「が、はっ……!」

口元を押さえると、手のひらにべっとりと赤いものがついた。

鼻血だけじゃない。吐血だ。

胃が痙攣し、内臓が悲鳴を上げている。

(限界か……?)

俺は床に這いつくばりながら、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めた。

その時だった。

……オ前モ、混ザレ……

ヘッドホンのノイズキャンセリングを貫通して、明瞭な「声」が聞こえた。

金庫の中からではない。

俺のすぐ耳元で。

須藤陸という個人の精神防壁の内側で、その声は囁いた。

「ッ!?」

俺はバッと振り返った。

誰もいない。

ただ、薄暗い倉庫の空気が、ゼリー状に固まって俺を取り囲んでいるだけだ。

黒い霧は、もう物理的な壁を越えて、俺の精神領域に侵入し始めている。

あと少しでも気を抜けば、俺もあの佐藤のように「あっち側」へ引きずり込まれる。

俺は震える手でポケットから業務端末を取り出した。

連絡先リストを開く。

『吉祥寺センター 相沢』

指が、通話ボタンの上で止まる。

あいつなら。

あの、何を考えているか分からないが、気味が悪いほど勘の鋭いあいつなら、何か知っているかもしれない。

以前の電話で見せた洞察力や、昨日のメールのタイミング。

ただの偶然にしては、あまりにも出来すぎている。

『助けてくれ』

その一言が、喉まで出かかった。

だが、俺はギリリと奥歯を噛み締めた。

なんで俺が。

あんな平和ボケした奴に。

俺はずっと一人でやってきたんだ。ノイズだらけのこの街で、一人で生き抜いてきたんだ。

「……誰が、頼るかよ……クソッ……」

俺は端末を床に叩きつけた。

液晶画面にヒビが入る。

俺は血のついた口元を拭い、霞む目で金庫を睨みつけた。

戦うしかない。

たとえ、俺自身がすり減ってなくなるとしても。

(第6話へつづく)


この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

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