「……クソ、また漏れてんのか。欠陥品がよ」
俺はふらつく足取りで、倉庫の奥にある「特別保管庫」へと向かった。
手には業務用のガムテープ。
分厚い鋼鉄の扉の隙間から、黒い煤(すす)のようなものがジワジワと染み出し、コンクリートの床を汚している。
昨日の「黒い霧」事件以来、この金庫は完全に鎮まっていない。
耳を澄まさなくても聞こえる。
『ブゥゥゥゥン……』
地底で巨大な発電機が回っているような、腹の底に響く重低音。
俺はヘッドホンのボリュームを上げながら、扉の隙間を目張りするように、何重にもガムテープを貼り重ねた。
これで四回目だ。
いくら塞いでも、内圧が高まると、どこからともなく漏れ出してくる。
まるで、新宿という街の膿(うみ)が、俺を嘲笑っているかのようだ。
俺は酸欠になった魚のように口で息をしながら、デスクに戻った。
***
デスクの上には、いつの間にか新しい届け物が置かれていた。
物理的な物体は、プラスチック製の社員証(IDカード)。
ネックストラップの部分が、引きちぎられたように切れている。
そして、それに付着している感情は――奇妙なことに「色」がなかった。
薄い灰色の霞(かすみ)が、カードの周囲をぼんやりと覆っているだけだ。
だが、俺が眉をひそめたのは、その「音」だ。
いつもなら鼓膜を突き破ってくるノイズが、そこにはない。
むしろ逆だ。
『…………』
その物体がある空間だけ、換気扇の音も、時計の秒針の音も、全てが吸い込まれて消滅している。
ブラックホールのような「完全な無音」。
近づくだけで、鼓膜が内側から吸い出されそうな、気持ちの悪い真空状態。
「……気持ち悪ぃ。うるさいよりマシだが、生きた心地がしねえ」
『品名:感情(摩耗型)』
『成分:思考停止、過剰適応、および個の滅却』
俺はこめかみを押さえた。
これは、昨日の「黒い霧」の予備軍だ。
完全にすり減って、感情というエネルギーさえ失った、灰色の残骸だ。
***
「……あの」
自動ドアが開いたことに、俺は気づかなかった。
気づけば、カウンターの前に一人の男が立っていた。
「社員証を、落としてしまいまして」
年齢は四十代くらい。ヨレたスーツを着た、痩せ型の男――佐藤。
その存在感は驚くほど希薄だった。
まるで背景と同化しているかのように、影が薄い。
顔色はコピー用紙のように白く、表情筋が死滅したように動かない。
彼は「感情を取り戻したい」という切実さすら持っていなかった。
ただ「それがないと会社のゲートが開かないから」という、システム上の理由だけでここに来ている。
ドンッ!!
佐藤がカウンターに近づいた瞬間、奥の金庫が内側から激しく叩かれたような音を立てた。
俺はビクリと肩を震わせた。
共鳴(レゾナンス)している。
金庫の中の「黒い霧(集団のストレス)」が、佐藤という「構成員(歯車)」を呼び寄せているのだ。
『戻レ……戻レ……』
金庫からの振動が、俺の骨を揺らす。
耳鳴りがキーンと跳ね上がり、視界が明滅する。
「……ありますよ」
俺は脂汗を流しながら、トングで社員証を摘み上げた。
早く渡して帰らせないと、金庫の中身が暴れ出す。
「ほらよ。あんたのだろ」
俺は、震える佐藤の手首を掴んだ。
バチッ。
灰色の世界が、俺の脳内に広がる。
《 共有された視界 》
そこは、窓のない巨大なオフィスだった。
地平線まで続く、無機質なグレーのデスクの列。
蛍光灯の白い光だけが、影のない世界を照らしている。
誰とも目を合わせない。会話もない。
聞こえるのは、無数の人間がキーボードを叩く『カタカタカタカタ……』という乾いた音だけ。
『申し訳ありません』
『修正します』
『承知しました』
『申し訳ありません』
感情のない定型文が、呪経のように脳内でループする。
痛みはない。怒りもない。悲しみもない。
ただ、自分がサンドペーパーで削られて、粉になって消えていく感覚だけがある。
これは「苦痛」ではない。
魂の「麻痺」だ。
「……ッ!」
俺は呻き声を上げて、手を離した。
この虚無感は、暴力的な殺意よりも質(タチ)が悪い。
生きながらにして死んでいる。
佐藤は、無表情のまま社員証を受け取った。
通常なら、感情が戻れば顔色が良くなったり、何らかの生気が戻るはずだ。
しかし、灰色の霧が佐藤の胸に戻った瞬間、彼の体は一層「灰色」にくすんで見えた。
さらに、金庫の隙間から漏れ出していた黒い煤が、床を這って佐藤の足元に絡みついたのが見えた。
「……ああ、ありがとうございます」
佐藤は深く礼をした。
「これでまた、戻れます」
その目は完全に死んでいた。
彼は、自分が「巨大なシステムの一部」であることを受け入れ、またその黒い霧の中へ溶けていくことを選んだのだ。
佐藤は、幽霊のように音もなく自動ドアを出て行った。
足元に絡みついた黒い影を引きずりながら。
***
佐藤が去った後も、センターの空気は重く淀んだままだ。
俺は激しい目眩に襲われ、その場に膝をついた。
「が、はっ……!」
口元を押さえると、手のひらにべっとりと赤いものがついた。
鼻血だけじゃない。吐血だ。
胃が痙攣し、内臓が悲鳴を上げている。
(限界か……?)
俺は床に這いつくばりながら、薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めた。
その時だった。
『……オ前モ、混ザレ……』
ヘッドホンのノイズキャンセリングを貫通して、明瞭な「声」が聞こえた。
金庫の中からではない。
俺のすぐ耳元で。
須藤陸という個人の精神防壁の内側で、その声は囁いた。
「ッ!?」
俺はバッと振り返った。
誰もいない。
ただ、薄暗い倉庫の空気が、ゼリー状に固まって俺を取り囲んでいるだけだ。
黒い霧は、もう物理的な壁を越えて、俺の精神領域に侵入し始めている。
あと少しでも気を抜けば、俺もあの佐藤のように「あっち側」へ引きずり込まれる。
俺は震える手でポケットから業務端末を取り出した。
連絡先リストを開く。
『吉祥寺センター 相沢』
指が、通話ボタンの上で止まる。
あいつなら。
あの、何を考えているか分からないが、気味が悪いほど勘の鋭いあいつなら、何か知っているかもしれない。
以前の電話で見せた洞察力や、昨日のメールのタイミング。
ただの偶然にしては、あまりにも出来すぎている。
『助けてくれ』
その一言が、喉まで出かかった。
だが、俺はギリリと奥歯を噛み締めた。
なんで俺が。
あんな平和ボケした奴に。
俺はずっと一人でやってきたんだ。ノイズだらけのこの街で、一人で生き抜いてきたんだ。
「……誰が、頼るかよ……クソッ……」
俺は端末を床に叩きつけた。
液晶画面にヒビが入る。
俺は血のついた口元を拭い、霞む目で金庫を睨みつけた。
戦うしかない。
たとえ、俺自身がすり減ってなくなるとしても。
(第6話へつづく)
この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は、実在のものとは関係ありません。

